見出し画像

多国籍企業

今回は、1970年代に起きたグローバル化のトレンドについて紹介したいと思います。現在でも、よく耳にするものだと思いますが、実の起源は70年代です。アメリカの企業は自国の市場の飽和を受けて、海外進出をしていきました。日本は20年以上続く低成長の中で、70年代の動きと同様のことを推し進めていくことが日本企業に求められているのではないでしょうか。
では、始めていきます。

長期のトレンド

国際的ビジネス活動に目新しものはありませんでしたが、第2次世界大戦後になると新しいグローバル化の波、経済統合、国境を超える投資の高まりが、世界全体に広がりました。特に、欧米企業はよりダイナミックで有望な市場において、自社の競争優位を発揮しようと海外投資を拡大していました。
この「多国籍化」は、すべての「先進」工業経済を巻き込みました。投資家と企業は、膨大な量の天然資源ー鉱物や石油ーを求めて、アフリカ、アジア、南アメリカをターゲットにして進出をします。この点で、多国籍な拡大戦略は、第2次産業革命の連続生産プロセスに不可欠な原材料に対する厳格な支配をしたいという野望によって推進されたものでした。

投資が急速に拡大した地域は、サービス分野の公共投資の分野においても外国資本を引き付けていました。途上国における、技術に関する欠乏は、外国資本にとって魅力的な投資先でした。
この投資によって、先進国で会社を設立し、外国に投資する資本や他の資源を集めて事業を行いますが、既存の国内事業には出自をもたない企業が数多く出現しました。このような企業をフリースタンディング企業といいます。

このような投資を行い、途上国で仕事をしているビジネスリーダーたちは、母国で成功した欧米企業の戦略をもう一度再現しようとしました。この動きは1970年代まで続き、世界で行われた外貨義投資の半分はアメリカが行っていました。
海外投資は主にアメリカの企業でみられた動きですが、ヨーロッパの戦時の混乱を抜け出した国際的な企業で競争力をもった企業や、日本のエレクトロニクス分野の企業も海外投資をするようになりました。

多国籍間にまたがる組織

グローバルな企業活動のマネジメントは一見難しいようにおもえますが、当時広範囲に広がっていた複数事業部型組織(M型)を用いれば、巨大な多国籍企業のための組織変革をしなくても、容易にマネジメントすることができました。海外に進出するとき、多国籍企業は子会社を設置し、グリーンフィード投資(現地企業のM&Aを用いずに、新規拠点を設立すること)や、現地パートナーの支援を行うことをして、リスクの低減をしていました。
海外子会社を設立し、母国の本社で監視するというマネジメント方法は、グローバルなマネジメントの主流となりました。

一方狭隘な国内市場を母国にする大企業も、この戦略をとり、国際市場での成功を勝ち取りました。例えば、オランダのフィリップス社、ユニリーバ社、スイスのネスレ社がこれににあたります。これ以外にも強力な技術優位をもった企業や、マーケティングや販売に優れた能力をもった企業も海外戦略で大きく成功していました。

この多国籍化のプロセスは、様々な研究者がそのプロセスを明らかにしょうとします。
例えば、カナダ人研究者のスティーブンハイマーは。「所得優位」という考えを導入し、なぜ国内企業が海外投資につきものの不確実性という危険を冒したかということを説明しました。彼の見方によれば、多国籍企業はは優れた技術面、組織面、金融面、マーケティング面に関する能力を所有しているがゆえに、海外で成功したということです。
他にも、ハーバードビジネススクール教授のレイモンド・ヴァノンは、プロダクトライフサイクルの考え方を加えることによって改善をしようとしました。つまり、海外事業を始める意思決定は、当該企業が事業を行っている国内市場の、通常の漸進的な飽和を契機としてなされるということです。
他にも、複雑な説明はありますが、最も有効で影響力のある理論は、1970年代にジョン・ダニングによって展開されたものになります。彼の広範で折衷主義的な枠組みは、複合的で、高度に可変的な選択であると分析しました。
彼は、海外企業の優位性を企業内部の特徴、能力、その他の強みなど主張しました。海外事業を始めるインセンティブはのいくつかは特有のもので、投資の「ホスト」国が持つ資源によって生み出されます。これを彼は「立地優位」と呼びます。立地優位は、ホスト国の市場規模とダイナミズム社会基盤の性質、政治風潮、文化的な態度までに及んでいます。

1970年代

1970年代~1970年代になると、異なるタイプのサービスが出現しました。この新しい波のなかに特に活発だったのが、金融、貿易、ビジネスサービスです。これらの分野は、サービス産業における国際投資のおよそ三分の二を占めるようになりました。
また、銀行や保険に加えて、さらに小売業も国際事業に巨額な投資を行うようになります。東ヨーロッパの自由化が始まったあとで、この動きは急速に拡大するようになります。
当初、これらの組織の多くは、自分たちの母国で発達させた専門知識や能力を利用し続けました。しかし、小売の国際化に進めるにつれ、企業は、複雑で多様な消費文化にますますたち向かわざるを得なくなりました。このような小売業は、市場に対する正しいアプローチを選ぶために、より注意深く策定する必要がありました。

経営コンサルティングも1970年代後半以降から急激に拡大しました。
コンサルティングビジネスは、企業が洗練された経理サービスや財務サービスを求めていたアメリカで始まりましたが、このビジネスの国際化は、ほとんど必然的な動きでした。海外のサテライトオフィスは政治経済システムを分析する上で、必要不可欠なものでした。

アメリカとその多国籍企業はこうした変化の中で重要な役割を果たし続けましたが、1970年代には、多くの産業はアメリカ支配が終焉を迎えていました。この流れは、第2次産業革命期の資本集約型産業に当てはまりました。アメリカドルの価値低下と、ヨーロッパとアジアの企業による技術進歩は、アメリカ企業に対して深刻な課題を突き付けました。アメリカは実際1980年代末までに、アメリカ企業は世界最大の投資家の位置を失うことなります。
1970年代初めにアメリカの海外収入は世界の50%を占めていましたが、2000年代になると、20%までに落ち込みます。この時に、日本の他のアジア諸国は、海外投資額を12%以上に拡大していました。

マルチナショナルの目新しさ

日本と東アジアの企業は、優れた技術と所有とは、関係のない優位性をもって海外に事業拡大をしていきました。すぐれた組織能力、企業と銀行との良好な関係、他の企業からの支援、そして国の金融支援が、海外への事業拡大を可能にしました。これらの企業が成功し、「ドラゴン多国籍企業」と呼ばれ、1990年代におけるグローバル化の流れにおいて、重要な役割を果たしました。彼らは、自国では利用できない技術的な優位性を用いて、事業を行いました。また、これらは、ジョイントベンチャーという、利害関係者とパートナーと組んで、グローバルな展開をしていました。

変わる戦略と組織

1980年以降、多国籍企業は様々な組織構造を採用するようになります。国際ビジネス研究者のクリス・バートレットとサマントラ・ゴジャールは、多国籍企業における組織の進化に関する本を出版しました。その本のなかで、多国籍企業を、マルチナショナル企業、インターナショナル企業、グローバル企業、トランスナショナル企業に分類します。
グローバル企業以外のモデルは、現地市場との密接な関係を構築したものになります。なかでも、有効なモデルがトランスナショナル企業であり、それは独立性の高い子会社のネットワークのなかで経営する会社で、子会社の能力はそれぞれ異なり、知識とイノベーションを変換しながら協働しています企業のことを指します。この場合、親会社は海外の子会社に対して非常に緩い管理を行います。

異なる文化のパターンへの正しい理解と非欧米的な知識をもつ価値の増大は、多国籍企業の構造に大きな影響を与えました。この変化のプロセスは、インターネット革命によって促進され、多国籍企業は取引コストの低下によって効率的に組織を構築することができました。これらの新技術は価値連鎖を生産プロセスにより小さな、より専門化した企業に分散することを可能になりました。この「ネットワーク型企業」は、国際的な企業活動のなかに次第に共通してみられるものとなりました。中小規模の企業による国境をまたいだ活動を可能にしたのも、この情報技術革命でした。中小企業は、いまや専門に特化し、イノベーションを起こすまでになっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?