絵を描くこと

活動記録にしたいから書かなきゃいけないことが幾つもある。現在進行形のプロジェクトが3つ。終わったばかりの個展。これからの展示。関わりを持たせてもらってる美術館のこと。今参加してる山形ビエンナーレのことも。

とはいえ、まだ2つめの投稿だ。私のベースである絵のことを書かなければならない。杭のように深く、打ち込んでおかないと、君はどこからその話をするのってことになる。私が知識と実感とを持って考えていることは、「絵」からスタートしている。私が何かを観察するときも、違うメディアを選ぶときも、何かを考えるときも、絵を描いてきたから、その視点になる。

とはいえ「絵」とはラスコーの洞窟壁画から始まったと言われるだけあって、イラストからタブロー、アナログからデジタル、宗教画のように共同体の紐帯であるものから自立し始める近代絵画以降のように語り口は様々で、多分noteでも「絵を描くこと」は何度でも書くし、更新もされていくんだと思う。その時はナンバリングでもしていこうか。それとも副題をつける?

でも先ずは、描き手として「drawing」と「painting」について書いておこうと思う。この2つに対しての自分の中の意識の差は、ものすごく個人的なもので、多分人それぞれ。でも私は私なりに、なんでそれはdrawingなのに、これはpaintingじゃないとダメなのか、明確に理由がある。

draw、の意味を上げていこう。引き出す、引きつける、汲み上げる、(結論や結果などを)出す、(災害などを)招く、〜を魅了する、引用する、近づく、引き分けになる…何かしら遠くにあるものを引き寄せるときに使うようだ。そしてそこに、描く、描画する、が加わる。概ねペンや鉛筆で線を引くことを指す。筆を使う時は、paintだ。ドローとペイント。口に出しただけで、のびやかに引っ張られる線と、絵具がおかれる感じの違いが出ている気がする。

私にとってdrawingはとても抽象的な行為だ。紙に一本の線を引く。その線はまだ何者でもない。でもそこにある、ことで、私の脳内から何か引きずり出されるような気がする。それを追うように線を増やす。私は線を引くけど、線に引きずられてもいて。何本線を引いても全て同じレイヤーに吸収されていくから、時間差の旅に出かけることができる。今描いている線が、一時間前の線に合流して、一時間前の私が知らなかったものになっていく。空想の世界、机上の空論。

最近イラストの仕事も少しもらえるようになってきたけど、illustrationには説明という意味があって、伝えたいビジョンを説明するために描く。私が描くdrawingとillustrationは似た見た目をすることが多いけど、描いている時の心持ちは随分違う。

閑話休題。

一方、paintingは上記したように絵具を置いていく。ぺたぺた。私は日本画材を使用することもあって、絵具は物質で下に置いた絵具とは交わらない、絵具はひたすら層を作っていくものだと考えている。絵画はイリュージョンだ、とよく言われるけど、私からすれば『パラサイト・イブ』だ。瀬名秀明のホラー。愛する人の細胞膜中、ミトコンドリアが意志をもって恋人の姿を形成する。絵具に含まれる顔料という小さな粒が寄せ集まって姿を立ち上げる。空想ではなく、そこにそのものとして。だからこそ、私は人物を描き、削ったり溶かしたり、様々な行為を重ねることで、その痕跡を作品にする。人物を立ち上げ、でもその姿を損わせる。

私が絵画を描く時、アトリエの状況は散々だ。粉が舞い絵画から落ちた絵具のカケラが散乱し、自分の手もヤスリと薬剤でボロボロになる。でも仕方がない。そこに私にとっての「あなた」が立ち上がってる。語り合う中で私の中の「あなた」は一度崩れ落ちてしまうのだけど、それでももう一度見出す。「あなた」のことを留めるためには、私自身、安全圏にいるわけにはいかないのだから。

線を引く、絵具を置く。絵を描く行為は身体的なものだ。私たちは身体無しにものを考えることは出来ないし、コミュニケーションを取ることもない。(ああでも、コロナでZoomのように顔は見ているけど、身体を実感出来ない日々が続いていったら何か変わるのかしら。まだ私は身体を覚えているけど。)

この身体的なものである、というか、私たちは否応がなく、身体という物理的なものをもって空間を占有する(そしてそれは絵画もそう)という感覚は、一つ飛躍をもって展覧会への興味にも繋がっている。多分。とりあえずは、これからコーヒーを入れて仕事に向かう。

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