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〔探訪録〕ボスニア・ヴィシェグラードの思い出

2015年3月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア国境の町ヴィシェグラードを訪れた。作家イヴォ・アンドリッチの足跡を辿る為である。イヴォはボスニア中央地方の出身であるが、父親の逝去に伴い、母方の親族が住むこの町に身を寄せた。
町にはイヴォが住んだ小ぶりの一戸建てと、通った小学校が残されている。木製の机が並ぶ教室には日本の昭和期の学校を思わせるような雰囲気があった。10名程度しか入らない小さな部屋にすぎないけれども、なかなか悪くない雰囲気だった。
町は大河ドリナ川とルザウ川が合流する場所にある。この町のランドマークは何といってもドリナ川にかかるメフメッド・ソコルル・パシャ大橋である。時代は15世紀、当時バルカン半島はオスマン帝国の版図となった。人材確保を要したオスマン帝国はキリスト教徒の村々からの少年たちの徴用・登用を進めた。これが世にいうデヴシルメ制度である。政治の中心に登用され栄達を遂げた者もいれば、反乱軍に手を染めて非業の死を遂げたものもいただろう。
メフメッドはヴィシェグラード近くのソコル村の出身であった。登用・仕官の際に改名をしているから、キリスト教名はわからない。彼はデヴシルメ制度の恩恵を最も受けた人物であった。帝国最盛期のスレイマン大帝の宰相を15年務め、最高権力者として辣腕を振るった。アゾフ海での運河開拓事業、ロードス島の攻略などがその代表例である。
政治の中枢に座ったパシャは故郷の町に立派な橋を建てることを思いつく。バルカン半島最大のイスラム都市で、軍事拠点でもあったサラエヴォへの連絡を密にするためである。
イヴォの生家からはこの橋が見える。辺境には過分な堅橋の威容は外国暮らしの長くなったイヴォの脳裏にも鮮烈に残っていたようだ。彼はユーゴスラビアにナチス軍が進駐した際には軟禁下に置かれたが、戦後ボスニアをテーマにした小説を多く執筆・発表した。『ドリナの橋』はそれらの代表作で、イヴォは1961年にノーベル文学賞を受賞した。
今回この町を訪れたことでこの作家が持っていた世界観の一端に触れることができた。物語において橋は市民生活の中心として描かれる。橋の中心にはカピヤという川面に張り出したテラス席があるのだが、そこでぐだぐだと怠惰に過ごす市民たちの姿がのんびりとつづられていくのである。張り出したカピヤの下には空洞がある。かつてこの町の子供たちは、この空洞の中に建橋の際に安全祈願として塗りこめられて殺されたキリスト教徒の幼子イリヤが住んでいて、母親に乳をねだるという伝説を信じていたようだ。不気味さを興味本位に語る子供たちが興じる様子が浮かんできた。きっとイヴォは子供たちのはしゃぐ姿の中に歴史の永遠性のようなものを感じたのだと思う。聞こえるはずのない子供たちの喧騒が聞こえた気がした。はっきりと形にはできないが、小説を書く上での何かを掴みかけたきがした。
川を渡ったところにはホテル・ヴィシェグラードというホテルがある。元々はオスマン帝国時代に隊商交易商人用の宿泊施設ハンがあった場所である。近代以降、ホテルに改築されたようだ。小説の中でもこのホテルの話が出てくる。数多く出てくる登場人物の中でも特に印象的なのはこの宿の経営者ロッテである。彼は西ウクライナ・ガリツィア地方の出身のユダヤ人で、一族を伴いこの地にやってきた。ランプの光の下で毎夜獅子奮迅の働きで帳簿と格闘し続ける女性の姿が目の前に広がってくるようだった。今回幸運にもロッテの執務室がかつてあったと思われるホテル2階の客室に泊まることができた。とめどなく流れ続ける川のせせらぎを聞いていると、ふとロッテの霊が側にいるような気がしてきた。カリカリと書きつけるペンの音が聞こえて気がする。
物語ではロッテは甥っ子を必死で大学を出そうと努力するが、当の甥っ子は政治運動に参加したカドであっさりと逮捕され、ロッテの野望も打ち崩されてしまった。このストーリーはここで終わるので、最終的に彼女ら家族がどうなったのかは分からない。「何なのよ、もぅ」そんな愚痴をしながら、必死に机にかじりつき続けた彼女の姿がどこか微笑ましく甦ってきた気がした。  

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