「有能さ」についてわたしが発見したこと


 これは最近になって私が発見したことなのだが、大人という存在はその人の持っている「能力」で外部から自分の価値を計られてしまうものである。そして、これも私が発見したことなのだが、多くの場合に「給料」や「報酬」にはその人の持っている能力が関わってくる。お金を稼げるようになるためには、実は、なにかの「能力」が必要とされるのだ。さらに、「能力」はお金のことだけでなく人間関係にも関わってくるし、場合によっては本人のアイデンティティにも影響を与えることがある。これも30歳を過ぎた私ならではの発見である。


 就職をするためには自分にどのような能力があってどんなことができるかを会社に対して示さなければならないし、給料だって能力に左右される。雇用されていないフリーランスだって仕事を受注するためには顧客たちに能力を示さなければいけないことについては変わりない。アカデミアや芸術の世界なら、一般的な仕事の世界以上に実力主義的であるだろう。

 また、大人になると、仕事の世界に限らず周囲の人間関係においても自分の「能力」が陰に陽に関わってくる。昔ながらの家族や友人たちであれば、自分がどういう人間で相手がどういう人間であるかということをお互いに承知したうえでの付き合いだから、今さら能力があるかないかで付き合いが変わるということは基本的にはない。世の中には「こいつは思っていたより無能で使えない奴でありこの先の俺の人生にとって無駄な存在だから縁を切ろう」という判断をしたり「こいつは有能なやつでいつか成功して金持ちになって俺もそのおこぼれにあずかれるかもしれないから、友人関係を持続させておこう」と考えていたりする不埒な輩もいるかもしれないが、いたとしてもそういう人たちは例外的な存在だ。基本的には、家族や友人関係というものはお互いの能力によって左右されるものではないはずである。……はずであるのだが、能力の差によって生じる社会的立場の差が、結果的に人間関係を歪めてしまうことはある。友人やきょうだいの関係であっても、あまりにも社会的立場が違うと話が通じなくなったり一緒にいることに気まずさが生じたりしてしまい、ぎこちない関係性になってしまうことがあるものなのだ。

 そして、大人になることのなかでもいちばんつらいことが、恋愛においても「能力」に左右されてしまうことだ。ずっと若い学生時代の恋愛であれば、自分という人間の人格だけで勝負することができる。若い頃から異性に能力を期待する人たちもいるであろうが、そうでない人も多くいる。「自分にはこんなことができて、将来的には自分はこんなに金を稼げるはずだ」とわざわざアピールをしなくても、人と人との深いところで繋がりあえる恋愛関係というものが実現できていたはずなのである。しかし、大人になって互いに就職して、結婚というものを意識したりするようになると、自分が男性の場合には自分の「稼ぎ」がほぼ必然的に問われることになる。口ではどんなにロマンティックなことを言う女性であっても、結婚を意識したときには相手に対して一定以上の収入を求めるものなのだ。ごくまれに相手に対して稼ぎを求めない女性もいるだろうが、その場合にも結局は男性には家事の能力やケアの能力などが求められることになるだろう(逆に考えると、女性の場合も、稼ぎは求められないとしても他の能力が求められることで苦しんだりしているということなのだろう)。……さらに、年齢に応じた収入や社会的立場が得られないままであると、そのうちに出会いの時点で「足切り」をされるようになってくる。自分からすれば若いころの自分といまの自分との間で本質的に何かが変わったわけではないのだし、むしろ昔に比べれば多少は器が広くなったり人の話を聞けるようになったりと多少は成長している部分もあるのだから、恋愛が収入や社会的立場によって左右されるというのも理不尽なことに思えるのだ。

 しかし、いくら理不尽に思えても、「能力」とそれによって左右される収入や社会的立場が、公的にも私的にも自分を規定することになってしまう。それが大人になるということであり、ある年齢を過ぎるとその状況から逃れることはできなくなるのだ。


 上述のことはわたしが最近になって発見したことだ。そして、もうひとつ発見したことがある。それは、どうやら大半の人たちが、上述のこと……大人になったら公的な場面でも私的な場面でも「能力」が求められるようになるということに若いころから気付いているのであり、だからこそ「能力」を獲得したり鍛えたりするための準備や努力を若いころから始めている、ということだ。私が30歳を過ぎてようやく発見したことに、世の中の大半の人は20代や10代の頃から気付いているのである。


 上に書いたように、友人関係においては本来は「能力」は関係ないものだ。特に学生同士であれば、互いの社会的能力を示しあう必要はないはずである。自分という人間がどういう人間でありどんなことを考えて生きていてどんなことを喋るか、そして相手という人間がどういう人間でありどんなことを考えて生きていて……必要なのは、それだけであるはずだ。

 しかし、思い返してみると、学生の頃から周りに対して自分の「能力」を発揮して、それによって周囲からの自分の評価を規定させることを望む人は、私の周りにも常に存在してきた。たとえば彼らは学業の優秀さや教授から自分がいかに評価されているかといったことを人に誇示したり、あるいはサークル運営やバイトなどにおいて事務処理能力や集団をまわす能力などを発揮したうえでそのエピソードを別の場所で自慢したりしていた。そうすることで同性のなかの一定の層からは嫌われることになるが、大半の同性は彼に対して感心したり羨望したりなどの肯定的な反応を示すし、多くの異性からは憧れの対象となる。恋愛関係においても、きっと相手が愛しているのは自分の人格や自分の会話や自分の考え方だけでなく自分の「能力」であることを、彼らは自覚していただろう。さらに、おそらく彼らはそのことを望んでいたのである。彼らは自分の「能力」を自分のアイデンティティに欠かせないものと見なしていたし、それなしの自分というものを想像できなかったのだ。……そして、大人として生きることの予行演習という意味では、彼らのスタイルは正しいものだった。大人になるにつれて、「能力」から乖離させたところに自分のアイデンティティを確立させることや、「能力」を抜きにして自分のことを他人に見てもらうことは、どんどん難しくなっていくからだ。

 とはいえ、この書きぶりからもわかるように、私は「能力」に自分のアイデンティティを委ねるタイプの人たちが昔から苦手だ。私としては、人に向き合うときには自分の能力ではなく自分の考え方や生き方を示したいし、相手にも同じようにしてほしいと思う。そして、私が彼らを苦手としていたのと同じように、彼らも私のようなタイプの人たちを苦手としているようだった。

 ところで、いわゆる「進学校」の出身者の思い出話を聞いてみると、彼らが大学に進学するずっと前から「能力」を意識した人間関係を築いていることに気付かされる。彼らの口からは、「同じ目標に向かって競争することでお互いの能力を高め合える」とか「"自分よりすごいやつ"の存在に気付かされることで、自分の能力について客観的に考えることができる」とかいったクリシェがいつも出てくるのだ。また、私にはそういう知り合いがいないので想像で判断するしかないのだが、運動部や吹奏楽部の強豪校の出身者も同じようなことを言ってそうなものである。

 さらにもうひとつ。これは東京に引っ越してから気付かされたのだが、「女にモテる」ためや「贅沢に暮らす」ためや「自分の力を証明する」ために能力を獲得してそれを発揮して大金を稼いで、それに飽き足らずに投資を行ったりするなどして、さらにさらに自分の能力を獲得して上へ上へと向かいたがる「ハングリーさ」や「野心」を持った人が、世の中には本当に存在するらしいのである。私はそういう人間はハリウッド映画やヤクザ映画の登場人物としてしか認識していなかったのだが、映画に描かれるということは、そういう人間が世の中には実際に存在するということであったのだ。それも、結構な数が存在しているようである。そういえばたしかに私は学校の先生や親や恋人に「なんでそんなにハングリーさや野心が足らないの」と呆れられたり嘆かれたりしてきたものだが、そもそもハングリーさや野心というものはフィクションの世界に属するものだと思っているところがあったのだ。


 私はやや極端なタイプであったとはいえ、「能力」を考えない人付き合いや生き方をしていきたい、と多かれ少なかれ考えている人は私の周囲にもそれなりの人数が存在してきた。私はそういう人たちと仲良くしたり時には喧嘩したりしながら、学生時代やフリーター時代をつつましく過ごしてきた。

 思えば、牧歌的な時代ではあった。私が学部に在籍していたのは2007年から2012年であり、リーマンショックの前年に入学して東日本大震災の翌年に卒業したことになる。特に入学直後は、就活の真っ最中の上級生たちですら就職や仕事に関して楽観的でのんびりした態度を取っていたように思える。リーマンショックが起こった後には上級生や同級生の間からも「ヒリヒリ」という感じが漂いはじめたが、それでも、入学してから2年や3年続けていたのんびりとした生き方や考え方を急に変えられるものではなかった。一方で、後輩たちを見てみると、入学年度が新しくなればなるほどその生き方に焦燥感と「社会」や「世間」への意識が見受けられるようになっていった。世の中の先行きが暗く厳しくなっていくことの影響が如実にあらわれていたのだ。

 時代だけでなく場所による影響も大きいだろう。京都と東京とでは、「社会」や「世間」に対する距離の感覚がかなり異なるものだ。京都の大学に通っていると、周囲の人間が一流企業に就職したり国家官僚になったりすることはそうそうないものである(所属しているコミュニティによって多少違ってくるだろうが)。身の回りにいる人の「有能さ」にも限度があるし、あまりに能力が求められる立場に自分たちがついているイメージも抱けない。多かれ少なかれ、みんながほどほどのところになし崩しに落ち着いていた気がする。……だが、東京のそれも一流大学であれば、自分の周りの人や友達の友達くらいの距離の人がGAFAなり霞ヶ関なりオックスフォードなりに行ったりすることは珍しくないだろう。「上を見てもキリがない」といくら頭で自覚したところで、そのような環境では能力が自分のアイデンティティにもたらす影響はいやでも大きくなるはずだ。

 それに、言うまでもなく、東京での生活には金がかかる。世の中には能力とあまり関係なく誰にでもできて最低限の収入が得られる仕事というものが存在したりはするのだが、都会だとそのような仕事の数は少ないし、「最低限の収入」で生きていくことも難しい。都会では、能力を通じた自分の価値を社会に対して常に示し続けることが要請されるのだ。「"何ができるか" とか"何をしてきたか"とかで評価されるのではなく、自分という人間の考え方や生き方をありのままに尊重してほしい」という思いは通用しないのである。


 それでも、私は大人になっても未だに「能力に振り回されて生きることは間違っている」「人と人の関係に能力が関与することは歪んでいる」という考えを捨てることができない。自分に対する周りの人からの評価とか自分の収入とかが能力によって決められるという事実そのものが、不当で非人道的なものであるという感覚を抱き続けているのだ。社会や経済というものの成り立ちを考えると世の中がそういう風に動くことは仕方がないし必然的なことであるかもしれないが、それでも不当で、おかしいのだ。人というものはありのままで認められるべきである。

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