続・緊急事態とわたし

 

 ↑ 先日の記事のつづきというか、繰り返し。

 やはりというか、転職活動の情勢は緊急事態宣言が出た途端に目に見えて悪くなった。以前までならけっこう多くの会社を書類選考はパスして面接まで行ったりしていた会社がいくつかあったところだが、いまはどれだけ応募しても書類選考の段階で不合格になってしまう。実際のところはわからないが、求人の数自体や採用人数が露骨に絞られている気がするし、一方で応募者は反比例して多くなっているような気がする。


 この緊急事態の下にいると、無職でいるということがどこにも属していなくてどこにも寄る辺がないということであるのが、身に沁みてわかる。この「どこにも属していなさ」は、現実的な問題であるのと同時に観念的な問題でもある。

 たとえば、自分のような立場の人の意見がどこにも代表されていないという感覚がある。ネットを開いてみると、疲弊している医療現場の声は聞こえてくるし、経営危機や経営破綻に陥っている飲食店や個人事業主の嘆きや怒りを目にすることもできるが、わたしのように緊急事態宣言の前から無職でいて転職活動に影響を受けた人の不安というものを目にすることはほとんどない。そもそも、その絶対数が少ないというところもあるだろう。国のコロナ対策の失敗や休業補償を出さないという不作為の煽りを受けて苦しんでいる医療現場や飲食店の人々の意見や感情に比べると「自己責任」の度合いが強いために、そういう無職の意見や感情には需要や価値がないようにも思える。実際、コロナがなくてもわたしの転職活動は失敗していたのかもしれないし、逆にコロナや緊急事態宣言があった後にも転職活動を成功させている人はいるだろう。医療現場の人たちや飲食店の人たちを襲っている悲劇に比べるとわたしや他の無職の人たちがいま立たされている状況は一概に"コロナのせい"と言うことはできないかもしれない。だから、同情や共感の対象にすることも難しい。無職たち本人としても、自分たちがいま感じているつらさや不安を表明することに図々しい行為であるように思えて引け目を感じているのかもしれない。

 また、世間の会社員たちがいっせいに在宅ワークを始めているなかでその波から取り残されているという感覚もあり、これはなかなかのストレスだ。在宅ワークが長期化することに伴う健康リスクやアルコール依存症のリスクや家庭内暴力のリスクなどの負の面も取り沙汰されるようになってきたとはいえ、端から見ているぶんには在宅ワークは羨ましいことこのうえない。通勤しなくていいし、自分の部屋で作ったり温めたりした食事を食べることができるし、なによりもサボりながら仕事をすることができる。世間一般の平均がどんな感じかは知らないが、すくなくともわたしと交友関係がある人たちに話を聞いたぶんでは、みんな本を読んだりテレビを見たり郊外にある友達の家に滞在したりとなにかしらのサボりや遊びをしながら仕事しているという話ばかりである。それで普段と同じ給料をもらっているのだ。羨ましいという感情しかない。いま会社に所属していたらわたしだって同じようにぬくぬくとラクチンな状態で仕事できていたかもしれないのだ。

 さらに、コロナや緊急事態宣言や在宅ワークに伴ってある種の「盛り上がり」が生じていることに対しても疎外感やストレスを感じてしまう。その「盛り上がり」とは、たとえばZoom飲み会ブームであったり、在宅ワークによって起こった子供やペットとのほのぼのエピソードを投稿したりすることであったり、普段よりも多くのお金を投入して映画館やアーティストや飲食店などを支援するムーブメントであったり、などなどである。言うまでもなく、これらは特に批判されたり非難されたりするような行為ではない。しかし、現在の就業状況や精神的余裕と経済的余裕の両方がないために「盛り上がり」に参加できない状態であると、自分が楽しめていないことを他人が楽しんでいるように感じられてイライラするのだ。

 この「盛り上がり」とそれに対する疎外感は、充分な休業補償を前提としたうえでの強固なロックダウンを求める声や、ハッシュタグを付けて給付金を要求するツイートなどに対しても感じるところである。感染症対策の見地からすればロックダウンが最善であるだろうということはわかる。だが、休業補償が仮に実現されたとして現時点で就業をしている人なら貰えるかもしれないが、無職であれば話は別だ。給付金をもらえたとしても10万円ぽっちなら焼け石に水である。もし仮にロックダウンの間は生活を続けられるだけの給付金が出されるとしても、経済が死んでしまい就職口がない状態が続いてしまうのであれば、その間はずっと不安や孤独に苛まれて半死半生の状態で生活しなければならない。だから、すくなくともわたしのような立場の人間からすればロックダウンをされることはデメリットの方があまりにも大きい。「いますぐに(補償をしたうえで)ロックダウンをするべきだ」という意見ばかりが活性化しているのを見ると、自分のような立場の人間の存在は忘れられていたり無視されていたりするのだなという気持ちになるのだ。

 ついでに言うと、したり顔で感染症と文明の関係を論じたり感染症に関する文学作品をリストアップしたり歴史上のトリビアを披露したりする文化人や知識人は目にするだけで不愉快だし、在宅ワークに関するハウツーやライフハックや所感を記事や動画に仕立て上げて投稿するブロガーやインフルエンサーも「ここぞとばかり」感があって気味が悪い。この事態について専門的知識を持っていたり現場で何かの経験をしている人についてはまた別だが、メディアやネットの世界にはどんな話題や時事問題についてもなにかしらのコメントをしたり一家言をぶったりすることが習慣になっている人が多くいて、そういう人たちが今回の件でもいつものように何かを言ったり書いたりしている。デマや陰謀論を巻き散らかすのは論外だが、そうでなくても、今回のように多くの人が苦しんでいる事態に便乗してなにかを表現したりアピールしたりすること自体が多かれ少なかれ品のない行為であるのだ(これに関しては、このnoteを書いている時点でわたしも他人のことを言えたものではないが)。


 こうして書き連ねてみると、常日頃からわたしが感じているタイプの不快感や孤独感が普段とは違う特殊な状況によって増幅されている、というだけのことであるかもしれない。根本的には、みんながノレていることに自分がノレていないという問題に尽きる。政府や自治体に対してみんなと同じようにロックダウンを要求することも怒りを表明することもできないし、みんなが得ている恩恵も得られていないし、みんなが楽しんでいることを楽しんでいられる状態でもない。


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