自分の中の驕り
最近、twitter上でひらりささんという方の書かれた『「ほとんど男子校」だった大学で求められた、「女子」としての役割 #それでも女をやっていく 』という記事を読んだ。
1「東大男子」である私にとって、とても心に刺さるものであった。下ネタ、他人のジャッジなど「男子校」的なノリを学生生活の様々な場面で誰かに強要していた自分の過去を大きく恥じさせられたのである。そのジャッジの裏側にある傲慢さ、想像力の欠如......。それらの笑いは瞬間風速が強く、自分が「強い」という感覚を与えてくれるのでやる側はとても心地よい。そのコミュニケーションはホモソーシャルな空間においてはメンバーシップの確認的な役割も果たすことになり、安易にそれらに流されてしまった自分の過去を恥じさせられる。フェミニズムの投稿を共有するクラスの人を馬鹿にするコミュニケーションをとったこともあった。
この投稿の中では、「ゼミの中でも非常に「男子校出身」的な男子、テニスサークルに所属し、そこで彼女をつくり、司法試験に通ったら当然渉外事務所で初年度年収1000万円をゲットするぞと息巻いているタイプの、常に他者をジャッジすることに躊躇いがないとある男子」が紹介される。自分の心に鋭く刺さった。自分は司法試験の受験を志しており、昨年予備試験に合格することが出来た。そして、その予備試験に受かったあたりから徐々に驕りというのが自分の中に出てきたことを否めない。渉外事務所で初年度年収1000万円をゲットするぞと息巻いている自分はそこにはあったし、この渉外事務所の秘書はいい、悪い、この就活の内定をゲットしたあいつは有能、他のやつはそこそこなんて、予備試験に向けての勉強中は考えてもいなかったのに他者をジャッジすることに躊躇いがない男子になっている自分がいた。
自分は本当に弱く脆い人間だと強く感じさせられた。と同時にそういった心の弱さゆえに、友人、サークル、SNSといったものの雰囲気に流され、その中に閉ざされた空間においてのみ気持ちの良いコミュニケーション、振る舞いをしている人が多いのだろうという現実についても経験的に考えさせられた。
人間は脆い。単純な心境の変化でふわふわと流され、他人や自分を思わぬ形で傷つける。そんな弱さを抱える人間が織りなす社会だからこそ、このような安易な流れに釘を挿すような評論、視点が求められることになるだろう。自分の内面に、そして他者の言葉にもっと敏感に、弱く脆いながらも丁寧に生きていきたい。そう思わせてもらった文章だった。多くの人に読まれるべき作品だと思う。
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