「死者と菩薩の倫理学」末木文美士

田辺がキリスト教と仏教との間を揺れ動いたのに対して、西田は強引に同一化へと突き進む。たしかにすべての宗教が統合されるとすれば、すばらしいことには違いない。しかし、それは到底果たし得ない夢でしかないのではないか。超越は、どこまでも場所的なものを超えて超越する。他方、場所はいかなる超越も許さずに包み込もうとする。両者はたやすくは「同一」にならない。それは、いみじくもマリオンとデリダにおける贈与とコーラの論争と重なる [Derrida and Marion, 1999.] [冥顕の哲学2」第三章参照〕。超越と場所は、もしかしたらどこかでつながるかもしれない。しかし、相反するままであるかもしれない。少なくとも、「自己同一」は当然の前提とはならない。先に「絶対無の場所」について触れたよう に、場所への深化は超越とは異なる方向に進む。


今村仁司は、古典的な近代哲学から出発しているので、「哲学は非理性的な(理性とは違うという意味での)信念を直接にも間接にも「語る」ことはできない」(「清沢満之と哲学」)として、「宗教的経験の「非合理的な、不可思議な」性格、ありえないようにみえてやはりある経験を理性的形式を借りて語る、あるいは原理的に人間の有限な理性をもっては「語りえないもの」をあえて語るのが仏陀の学である」と、「仏陀(の)学」を定義する。


ただ、いずれにしても人間の言葉で語りえないことが大きな問題となるということ は、念頭に置いておくことが必要だ。今村は、その語りを「比喩的語り」だと言う。

―――仏陀学は、語りえざるものすなわち一種の「神秘」を語るとき「知的形式」を哲学から借用するが、しかしそうした借用的な語りは、そしてその知的形式は、本来の哲学的推論ではなくて、 知的形式をまとった「比喩的語り」である。



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