労働

霧越しに世界を見ているような
何にも取り組む気がしない
ただ寝息のように呼吸だけして
肌に染み込んでくるものだけを世界から得る
このくらいしか出来ない

労働。また前と同じ、東南アジア人と緩く働ける現場に入れた。
だが、鬱屈無しで茫洋と時が流れてゆく。
それでも「われわれの命だ!」とかキリストのイメージ浸れたが、器がそれに適していなくて、吸収はしきれず。茫洋さに引っ張られて霞む。
あの聖痕を求めるような心情について思ったのは、
イメージでぐわっと来るだけじゃ足らずに、感覚的により以上を求めると、より現実的な刺激である痛覚さえ、そのイメージの中で求めるのではないかということ。(文下手)(おぉ、の中で)
なぜ、やる気がなくとも勝手に(不遜)外から加えられるように生命感覚やキリストのイメージが喚起されるのか? ただの慣れや習慣の問題なのか、自分から必要に応じてひねり出しているのか?

2時間半自主的に残業
進歩を感じない一日

わ〜い!😄