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僕は貴方の自慢になれていますか。

今日は先週64歳の誕生日を迎えた父について書こうと思う。

父は屋久島の生まれで父親、つまり僕の祖父の仕事の都合で幼い頃から転勤族だったらしい。大学を中退し、中東やヨーロッパを放浪した後に単身アメリカに渡り、その後およそ20年定住した。2〜30代のほとんどをアメリカで過ごした父にとっては体感では人生の半分ほどアメリカで生きたようなものだろう。考え方や行動にアメリカンなものを感じる事は少なくない。

父は手先が器用だ。家にある家具のほとんどが父のお手製と言っても過言ではない。台所にある大きなテーブル、引き出しや本棚、我々3人兄弟はかつて3段ベッドで仲睦まじく寝ていたものだがそれも父の手によるものだ。成長してからはそれらを切り離して3つのベッドに作り替えたのも容易ではなかっただろう。

そういえば昔、小学校の夏休み課題に「自由制作」というものがあった。粘土で貯金箱を作ったり、牛乳パックやペットボトルを使ってロボットを作るようなやつだ。これに謎の情熱を注いだのが父だった。ピンホールカメラという、レンズを用いない非常に原始的な仕組みを持つカメラ(このカメラの歴史は1021年にまで遡るらしい)を一緒に制作したり、割り箸のみを用いて帆船型の貯金箱を共に作ったりしたのも父の仕事場でだった。今思い返してみても、どうみても小学生が夏休みの宿題で持ってくるレベルのクオリティではなかった。

手先の器用さは還暦を過ぎた現在も健在だ。今は出回ってない携帯電話のパーツを海外から取り寄せ、自分で組み立てた上に普通に使用できるように設定したらしい。今父親の手元にはそんな感じのケータイが3台とタブレットが2台ある。「LINEの使い方がわからん…」とかぼやいてる同年代のおっさんに見せたい光景だ。

さて、そんな父に対し僕が敬意を払わずにはいられなかったエピソードを少し紹介したい。

まず一つは僕が大学卒業後の進路を決めるに当たって世界一周の旅に出たいという話をした時だ。父は僕にこう言った「人様に迷惑をかけなければ俺はお前の人生に何も口出しはしない」と。「好きに生きろ」と背中を押してくれた。
最近はこの「人様に迷惑をかけるな」という文言は煙たがれる。「人はどうしたって迷惑をかけるのだから迷惑をかけることを恐れずに人の迷惑を許せるようになれ」といった旨のインドの教えがこれに対比されているのがSNSで散見されるが、どちらも大切な教訓だと僕は思う。
確かに人は生きてれば迷惑をかける、しかし「だから迷惑をかけてもいい」というものでもないだろう。少なくとも僕は父のこの言葉に救われた。
守るべき節度を守れば、通すべき筋を通せば、俺はお前の人生に立ち入らない、それは僕自身が一人前だと認められたようでもあり、突き放しているようで優しく見守ってくれているようでもあり、温もりに満ちた激励の言葉だった。

二つ目は僕がオーストラリアから帰国した時、当時の僕は諸事情あって金髪で長髪、両サイドを刈り上げて後ろで結んでいた。当然周りからの評判は良くなく、両親からすらも歓迎されない髪型だった。
ある日父と旧友を訪ねに行った時に昔からの知り合いが僕に「何だお前その髪は〜切れ切れ!」と冗談混じりに言ってきた。その時僕は何も言い返せずにいたが父は「俺だってこいつの頭を気に入ってる訳じゃない。でもそれは俺やお前がどうこう言うことじゃない」と割って入ってくれた。父も本心では早く切って欲しいと思っていただろうに僕個人を尊重してくれてるのだなと強く実感した日だった。

最後に僕がアフリカのモザンビークに行くことを決めた日。オーストラリアで生活し始めて半年以上経っていただろうか。LINEでやりとりすることも少なく、最後に連絡をとってから4ヶ月が経っていた。4ヶ月ぶりの連絡が突然「アフリカに行ってくる!」になってしまった。どんな返信が返ってくるか不安を拭えずにいた。父からの返信は「チャンスがあるのならどこへでも行ってこい」だった。父は変わらず僕の背中を力強く押してくれた。

父の背中を見て育ち、父の背中に憧れて歩いてきた。父の背中を追いかけてたはずなのに、気付けば父は横に立ち僕の背中を押してくれた。
そんな父と、そして母と先日オリンピックをテレビで観戦していた。母は金メダルを獲得した選手に賛辞の言葉を口にしながら呟いた。「私は子供をオリンピック選手に育てたかったのよね〜」と。「オリンピック選手になれなくて悪かったね」と皮肉混じりに僕は返した。母は笑いながら言った「いいの。うちの家系は皆足が遅いし、誰かを蹴落としてまで勝とうって思う子たちじゃないから、スポーツ選手には向いてない」それを聞いていた父は画面からは目を離さずに言った。


「優しい子たちに育った」


父も笑っていた。




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