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論語と算盤-凡例

本書題して『論語と算盤』とせしは、毫(ごう)も 奇をてらい 異を好みて世人に迎合せんがためにあらずして、その命名は全く次項の理由に基づくものなり。
本書収める所は、わがくに実業界の一大権威たるとともに、特に財界の恩恵者たる渋沢子爵 (ししゃく)が、明治の初年大に慨する所あり。すなわち印綬 (いんじゅ)を解きて 野に下り、翻然 (ほんぜん)として実業界に投ぜられるにあたり、信条を孔子教にとり、以来四十有余年の久しき、『論語と算盤』とは必ず合致すべきもの、また合致せしめざるべからざるもの、換言すれば、「仁義と殖利 (しょくり)」とは、その根底において必ずしも捍格(かんかく) するものにあらざることを創唱 (そうしょう)し実践し、身を以て範(はん)を垂れ 、且つ筆に舌に鼓吹 (こすい)せられつつあるの精髄 (せいずい)なり。
簡冊(かんさく)をなすがごときは、もとより子爵の志にあらざるは、あえて再言するの要なしといえども、世上今なお「道義と金銭」とは柄鑿(ぜいさく)相容れざるもののごとき謬想(びゅうそう)に囚わるるもの尠少(せんしょう)にあらざるをもって、ここに偉人の活教訓を提供して、これが迷夢(めいむ)を警醒(けいせい) せんがため、特に快諾を得て収集編さんせるものなり。
書中に収集せるものは、子爵が時処に関わらず、物に応じ事に接して訓話せられたるものなれば、もとより一の著述におけるがごとく、秩序的の系統をなさざるは言をもちいざるのみならず、往々重複するもの少なからざれども、重複はすなわち丁寧反復の意にして、特にその事項に対して注意を促すものというべきのみ。
書中、篇を設け章を別ちたりといえども、これもとより毎訓話の全璧にわたるものにあらずして、中について崑山(こんざん)の片玉(へんぎょく) を捃摭 (くんせき)し、読書子の繙閲 (はんえつ)に便ぜんがため、特に編者が推類区分したるに過ぎざるなり。
本書を編さんするにあたりては、これが資料はことごとく龍門雑誌に仰ぎたるものなれば、ここに明記して責任を明らかにす。
本書の刊行に際しては、子爵門下の龍門社幹事八十島親徳氏は、常に公私の要務多端なるにも関わらず、一再ならず貴重の時間を割愛し、もって懇篤(こんとく)なる幇助(ほうじょ)と便宜とを与えられたり。よってここに特記し、謹んで感謝の意を表す。
編者識

「書中に収集せるものは、子爵が時処に関わらず、物に応じ事に接して訓話せられたるものなれば」や「本書を編さんするにあたりては、これが資料はことごとく龍門雑誌に仰ぎたるものなれば」とあるように、「論語と算盤」は、龍門社から刊行された雑誌に掲載された渋沢栄一先生の訓話を編者がまとめて書籍化したものです。

この凡例の中では、「論語と算盤」というタイトル、現代風にいうと「哲学とコンピュータの融合」みたいなタイトルは別に奇をてらったものではなく、仁義と金儲けは共存すべきものであることを意味しているとはっきり述べています。つまりは、現代の人間の心を見ずお金を増やすことのみを目的としたロボット人間を理論のベースとしている経済や市場のしくみではいかんよと言っているわけですね。

1867年パリ万博のころの時代背景から察するに、仁義やプライドのみを重視する武士の精神だけではGOLDをたんまりと持つ日本から狡猾に搾取することをたくらむ海外の連中には勝てないぞ、という意味で書かれたものと思われます。一方、現代に当てはめて解釈すると、戦後太平洋戦争に負けて魂をなくしバブルを経て真面目なものづくり精神も失った金儲け詐欺や精神疾患が横行する現代日本はもちろん、異常気象やGAMFAによる富の独占、コロナパンデミックといった様々な課題を抱える地球上の全人類にとっても、そもそも私たちなんのために生きているんだっけ?と、やっと人間の幸福の本質について科学的に考えざるを得なくなっており、多くの人たちはそのことに直感的に気づいているし、いくつかの学問も論理的にその境地まで進化してきていると感じています。

「論語と算盤」の原著では「凡例」という最初の章があり、この書籍の立ち位置の説明が書いてある重要な章なのです、という話でした。

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