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論語と算盤⑧実業と士道: 1.武士道は即ち実業道なり

武士道の神髄は正義、廉直(れんちょく)、義俠、敢為(かんい)、礼譲等の美風を加味したもので、一言にしてこれを武士道と唱えるけれども、その内容に至りては、なかなか複雑した道徳である。しかして余が甚だ遺憾に思うのは、この日本の清華たる武士道が、古来専ら士人社会のみに行なわれて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、その気風の甚だ乏しかった一事である。古の商工業者は、武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考え、かの「武士は喰わねど高楊枝」というがごとき気風は、商工業者にとっての禁物であった。おもうにこれは、時勢のしからしめた所もあったであろうけれども、士人に武士道が必要であったごとく、商工業者もまたその道が無くては叶わぬことで、商工業者に道徳は要らぬなどとはとんでもない間違いであったのである。
 蓋し封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行なわれざるもののごとく、心得たと同一の誤謬であって、両者ともに相背馳するものでないとの理由は、今日すでに世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴きとは、これ人の欲する所なり。その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり。貧と賤とは、これ人の悪む所なり。その道をもってせずして、これを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義俠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓えにおいて、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで、敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、また、かのその道をもってするに非ざれば、たとえ富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬというのは、これまた古武士がその道をもってせざれば、一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものといって宜しかろう。果たしてしからば、富貴は聖賢もまたこれを望み、貧賤は聖賢もまたこれを欲しなかったけれども、ただかの人々は、道義を本とし富貴貧賤を末としたが、古の商工業者はこれを反対にしたから、遂に富貴貧賤を本として道義を末とするようになってしまった。誤解もまた甚だしいではないか。
 想うにこの武士道は、ただに儒者とか武士とかいう側の人々においてのみ行なわるるものではなく、文明国における商工業者の、拠りてもって立つべき道も、ここに存在することと考える。かの泰西の商工業者が、互いに個人間の約束を尊重し、たとえ、その間に損益はあるとしても、一度約束した以上は、必ずこれを履行して前約に背反せぬということは、徳義心の鞏固なる正義廉直の観念の発動に外ならぬのである。しかるに、わが日本に於ける商工業者は、なおいまだ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、ややもすれば道徳的観念を無視して、一時の利に趨らんとする傾向があって困る。欧米人も常に日本人がこの欠点あることを非難し、商取引において日本人に絶対の信用を置かぬのは、我邦の商工業者にとって非常な損失である。
 およそ人として、その処世の本旨を忘れ、非道を行なっても、私利私慾を充たそうとすることがあったり、あるいは権勢に媚び諂ってもその身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、かくのごときは決してその身、その地位を永遠に維持する所以の道では無いのである。荀も世に処し身を立てようと志すならば、その職業の何たるを問わず、身分の如何を顧みず、始終自力を本位として、須臾も道に背かざることに意を専らにし、しかる後に自ら富み且つ栄ゆるの計を怠らざるこそ、真の人間の意義あり、価値ある生活ということができよう。今や武士道は移してもって、実業道とするがよい。日本は飽くまで、大和魂の権化たる武士道をもって立たねばならぬ。商業にまれ工業にまれ、この心をもって心とせば、戦争において日本が常に世界の優位を占めつつあるがごとく、商工業においてもまた世界に勇を競うに至らるるのである。

本節で、渋沢栄一先生は、武士道の本質が正義、廉直(れんちょく:
行いが潔白で、正直なこと)、義侠などの美徳に根ざしていると述べ、これが単なる士人社会に留まらず、商業者にも必要であると説きます。先生は、古い商工業者が武士道の価値を誤解し、道徳を軽視していたことを批判します。さらに、武士道と商業の成功は相反しないと強調し、孔子の教えを引用して、道徳を守りながら富と地位を得ることの重要性を説きます。先生は、日本の商工業者が道徳的観念を重んじ、信頼性を高める必要があると主張し、武士道の精神を実業に応用することで、日本が商工業の分野でも世界で競争できるようになると結論づけています。

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