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論語と算盤⑥人格と修養: 3.誤解されやすき元気

元気とは如何なるものかというに、これを形に現して説くことは、甚だ難しい。漢学から説けば、孟子の言う浩然之気(こうぜんのき)に当たるだろうと思う。世間ではよく青年の元気というけれども、青年にばかり元気があって、老人には無くて宜いというのでない。元気は押し並べて、さらに一歩進んでは男女ともになければならぬと考える。大隈侯のごとき、私よりは二つもお上であるけれども、その元気は非常なるものである。孟子の浩然之気につきては、孟子が「其の気たるや、至大至剛(しだいしごう)、直(ちょく)をもって養ひて害なし、すなわち天地の間に塞がる」と、こう言っておる。この「至大至剛、直をもって養う」という言葉が、甚だ面白い。世間ではよく元気がないとか、元気を出したとかいう。ことによると、大分酩酊して途中を大声でも出して来ると、彼は元気が宜いといい、黙っておると元気が悪いというが、しかし「ポリス」に捕まって、恐れ入るというような元気は、決して誇るべき者でない。人と争って、自分が間違っておっても強情を張り通す。これが元気が宜いと思ったら大間違いである。それは、すなわち元気を誤解したのである。また気位が高いということも元気であろう。福沢先生の頻りに唱えておった独立自尊、この自尊などもある場合には元気ともいえよう。自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる、これらと同様な自尊なれば宜い。しかし自治だの自活だのは、相当な働きがあるから宜いが、自尊ということは誤解すると倨傲(きょごう)になる。あるいは不都合になる。すべて悪徳になって、一寸(ちょっと)道を通りかかっても、此方(こなた)は自尊だから己は逃げないといって、自働車などに突き当たっては、とんだ間違いが起こる。かかるものは元気ではなかろうと思う。元気というものは、そういうものでない。すなわち、孟子のいわゆる至大至剛、至って大きく、至って強いもの、しかして「直を以って養う」、道理正しき、すなわち至誠をもって養って、それがいつまでも継続する。ただちょっと一時酒飲み、元気で昨日あったけれども、今日は疲れてしまったと言う。そんな元気では駄目である。直(ただ)しきをもって養って餒(う)うる所がなければ、「すなわち天地の間に塞がる」、これこそ本統の元気であると思う。
この元気を完全に養ったならば、今の学生が軟弱だ、淫靡だ、優柔だと言われるような誇(そし)りは、決して受ける気遣いはなかろうと思う。しかし今日のままでは、多少悪くすると元気を損ずる場合がないとは言われぬ。老人とても、なおしかりであるが、特に最も任務の重い現在の青年は、この元気を完全に蓄えることを、くれぐれも努めなくてはならぬ。程伊川(ていいせん)の言葉であったと思うが、「哲人機を見てこれが思いを誠にし、志士厲行(れいこう)これが為(い)を致す」との句がある。あるいは文字が間違ってるかもしれぬが、これは私の注意した言葉で、今も感心するが、かの明治時代の先輩は「哲人機を見てこれが思いを誠にし」ということをした人である。大正時代の青年はどうしても「志士厲行これが為を致す」という方であって、すべて巧みにこれを纏むる時代であると思う。ゆえに青年は充分元気旺盛にして、聖代に報答するの心掛けが緊要であると思う。

本節では、「元気とは易しく説明できるものではないが、孟子の言う浩然之気(こうぜんのき)、すなわち至大至剛(しだいしごう)であり誠実に育てられる気質を指す」とうたっています。

元気は青年だけでなく男女老若全てに必要なもので、単に声が大きいことや強情を貫くことだけが元気ではない。真の元気は自尊心から来る独立自尊であり、自らを支え保ち正しく生きることであり、これを誤解すると高慢になることもある、とおっしゃています。孟子の考える本当の元気は持続的で、一時の高揚ではなく誠の精神を養うことが重要である。当代の青年はこの元気を蓄えるよう努めるべきであり、先人の精神を受け継ぎ時代に貢献する尽力が求められる。

若さや高揚した気持ちはどのように意識的に解消したらよいかが書かれています。

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