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論語と算盤①処世と信条: 8.争いの可否

世間には、争いを絶対に排斥し、如何なる場合においても、争いをするということは宜しくない。「人もし爾の右の頬を打たば、左の頬をも向けよ」などと説く者もある。こんな次第で他人と争いをするということは、処世上に果たして利益になるものだろうか。はた不利益を与えるものだろうか。この実際問題になれば、随分人によって意見が異なることだろうと思う。争いは決して排斥すべきでないと言うものがあるかと思えば、また絶対に排斥すべきものだと考えておる人もある。
私一己の意見としては、争いは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであろうかと信ずるのである。私に対し、世間ではあまりに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んでおるが、私はみだりに争うごときことこそせざれ、世間の皆様達がお考えになっておるごとく、争いを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得ておるほどに、そう円満な人間でもない。
孟子も告子章句下において「敵国外患無き者は国つねに亡ぶ」と申されておるが、如何にもその通りで、国家が健全なる発達を遂げて参ろうとするには、商工業においても、学術技芸においても、外交においても、常に外国と争って必ずこれに勝ってみせるという、意気込みが無ければならぬものである、ただに国家のみならず、一個人におきましても、常に四囲に敵があってこれに苦しめられ、その敵と争って必ず勝ってみましょうとの気が無くては、決して発達進歩するものでない。
後進を誘掖(ゆうえき、案内すること)輔導(ほどう)せらるる先輩にも、大観した所で、二種類の人物があるかのごとくに思われる。その一つは、何事も後進に対して優しく親切に当たる人で、決して後進を責めるとか、苛めるとかいうようなことをせず、飽くまで懇篤と親切とをもって後進を引き立て、決して後進の敵になるごとき挙動に出でず、如何なる欠点失策があっても、なおその後進の味方となるを辞せず、どこどこまでも後進を庇護して行こうとするのを持ち前とせられておる。こういう風な先輩は、後進より非常の信頼を受け、慈母のごとくに懐かれ慕わるるものであるが、かかる先輩が果たして後進のために真の利益になるかどうかは、いささか疑問である。
他の種類はちょうどこれの正反対で、いつでも後進に対するに敵国の態度をもってし後進の揚げ足を取ることばかりをあえてして悦び、何か少しの欠点が後進にあれば、すぐガミガミと怒鳴りつけて、これを叱り飛ばして完膚なきまでに罵り責め、失策でもすると、もう一切かまいつけぬというほどに、つらく後進に当たる人である。かく一見残酷なる態度に出づる先輩は、往々後進の怨恨を受けるようなこともあるほどのもので、後進の間には甚だ人望の乏しいものであるが、かかる先輩は果たして後進の利益にならぬものだろうか。この点はとくと青年子弟諸君において熟考せられてしかるべきものだろうと思う。
如何に欠点があっても、また失策しても、飽くまで庇護してくれる先輩の懇篤なる親切心は、誠にありがたいものであるに相違ないが、かかる先輩しかないということになれば、後進の奮発心を甚だしく沮喪(そそう、意気がくじけて元気がなくなること)さするものである。たとえ失策しても先輩が恕(じょ、思いやりの心で過ちを許すこと)してくれる。甚だしきに至っては、如何なる失策をしても、失策すれば失策したで先輩が救ってくれるから、予め心配する必要はないなど、至極暢気に構えて、事業に当たるにも綿密なる注意を欠いたり、軽躁なことをしたりするような後進を生ずるに至り、どうしても後進の奮発心を鈍らすことになるものである。
これに反し、後進をガミガミ責めつけて、常に後進の揚げ足を取ってやろうやろうという気の先輩が上にあれば、その下にある後進は、寸時も油断がならず、一挙一動にも隙を作らぬようにと心掛け、あの人に揚げ足を取られる様なことがあってはならぬから、と自然身持ちにも注意して不身持ちなことをせず、怠るようなことも慎み一体に後進の身が締まるようになるものである。ことに後進の揚げ足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、これを罵り嘲るのみで満足せず、その親の名までも引き出して、これを悪しざまに言い罵り、「一体貴公の親からして宜しくない」などとの語をよく口にしたがるものである。したがって、かかる先輩の下にある後進は、もし一旦失敗失策があれば、単に自分が再び世に立てなくなるのみならず、親の名までも辱め、一家の恥辱 になると思うから、どうしても奮発する気になるものである。

6.時期を待つの要あり」でも述べられていたように、国に関しても企業に関しても個人に関しても競争が必要で、競争してよし勝ってやろうとの気概がないと結局滅ぼされて終わってしまうということです。

後進を教育する立場の先輩についても、平和主義で後輩や部下の失敗を寛大な心で受け止めてくれる優しい先輩や上司と、ことこまかく確認をしてうざいくらいダメ出しをしてくる先輩や上司の両方がいて、もちろん前者の方が後進から慕われることになりますが、渋沢先生は後者の先輩のメリットについてもっと後進側が考えよ、とおっしゃっています。

自分も一人でいることが好きなタイプであえて細々したコミュニケーションはとりたくないたちの人間です。一方仕事に関しては論理的でお客様ファーストで考える癖がついていますが、自分勝手なので後輩や部下に理屈に合わないことをされるとイラッときてすぐ口や顔にでるタイプです。そのため、十中八九後輩には慕われないのですが、こっちとしては別に何も気にしてないわけではなく、後進に託す仕事においては皆が路頭に迷わないよう場を整理してことに相当な配慮をもって取り組んでいるつもりです。

ただこのやり方は小学生のときからそうなんですが、誰にも理解された試しがなく、そのラッキーは自然の摂理によって及ぼされたものであって、よもや近くの人間が設計してそうなっているなんて思ってもみないようなのです。

おそらく渋沢先生も同じタイプの人間で頭が良すぎて自然と周りを安定的な状態にもっていってしまうのでしょうが、本節で「青年子弟諸君において熟考せられてしかるべき」とおっしゃっているとおり、後輩諸君にはもう少し落ち着いて何が本質的に具備されているからこの場が平和になっているかというものを考えてもらいたいと思うわけです。

まぁ、会社の収益という形で成果がでているので問題はないし、うちの社長は年下ではあるもののこの辺をよく理解している人なので、しばらくは安心して私自身も進化すべく精進していこうと思っています。まぁ、先輩後輩上司部下などは関係なく、適材適所ということなのだろうと思います。

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