見出し画像

論語と算盤⑧実業と士道: 7.果たして誰の責任ぞ

世人ややもすれば、維新以後における商業道徳は、文化の進歩に伴わずして、かえって衰えたという。しかしながら、余は何ゆえに道徳が退歩、もしくは頽廃(たいはい)したか、その理由を知るに苦しむ者である。これを昔日の商工業者に比すれば、今日の商工業者とそのいずれが道徳観念に富み、いずれが信用を重んずるであろうか。余は今日をもって遥かに昔日に優るものと断言するに憚らぬけれども、今日他の事物の進歩した割合に道徳が進んでおらぬとは、すでに前説のごとくであるから、余は必ずしも世人の説を駁(ばく)する訳ではない。ただ吾人のこの間に処するものは、かくのごとき世評の生ずる理由を詮索し、一日も早く道徳をして、物質的文明と比肩せしめ得るの程度に、向上させなくてはならぬ。それは前に述べたるがごとき方法の下に、道徳を講ずるのが先決問題であろう。しかし、それとても特別の工夫方法を要する訳でなく、ただ日常の経営において、左様心掛けておれば足るのであるから、左までむずかしいものではない。
維新以来、物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴わなかったので、世人はこの不釣合いの現象に著しく注目して、商業道徳退歩というのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用い、物質的進歩と互角の地位に進ませるが、目下の急務には相違ないが、一面から考察してみると、単に外国の風習ばかりを見て、ただちにこれをわが国に応用せんとすれば、あるいは不可能を免れぬこともある。国、異なれば道義の観念もまた自ずから異なるものであるから、仔細にその社会の組織風習に鑑み、祖先依頼の素養慣習に考え、その国、その社会に適応する所の、道徳観念の養成をつとめなければならぬものである。一例を挙ぐれば、「父召せば諾なし、君命じて召せば駕を待たずして行く」とは、すなわち、日本人が君父に対する道徳観念である。「父召せば場声に応じて起ち、君命じて召すことあれば、場合を問わずして、ただちに自ら赴く」とは、古来日本人士の間に自然的に養成されたる一種の習慣性である。しかるに、これを個人本位の西洋主義に比較すれば、その軒輊は非常なもので、西洋人の最も尊重する個人の約束も、君父の前には犠牲として、あえて顧みぬも宜いということになる。日本人は、忠君愛国の念に富んだ国民であると称揚さるるかたわらから、個人間の約束を尊重せぬとの誹謗を受くるのも、要するにその国固有の習慣性がしからしめたので、われと彼では、その重んずる所のものに差異がある。しかるに、そのよって来たる所以を究めずして、いたずらに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると非難するは、あまりに無理であるというより外はない。
かく論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことは、もちろんである。とにかく、近頃の商工業者の間に、あるいは道徳観念が薄いとか、あるいは自己本位に過ぎるとかいう評を加えられることは、当業者の相互の警戒せねばならぬことではあるまいか。

渋沢栄一先生は、明治維新以降の商業道徳が文化進歩に伴わず退歩したとする一般の見解に必ずしも同意せず、商工業者の道徳観念と信用について現代と過去を比較しています。先生は現代の商業道徳が進歩していないことを認めつつ、それを改善する方法を探究し、道徳を物質的文明と同等に向上させることの重要性を強調します。また、日本の文化や社会構造に適した道徳観念の養成の必要性を説き、西洋の個人主義と比較して日本人特有の道徳観念を述べています。彼は日本の商業道徳の現状に満足していないとしながらも、商工業者間での道徳観念の強化と警戒の必要性を説いています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?