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母から離れたかった娘、娘を束縛したかった母

私と母の事を書いてみます。記憶が薄れないうちに。

私の母は、娘依存症でした。嫌、他人依存症かな。嫌、自分第一主義というのか。とにかく、自分はこんなに苦しく大変な思いをしているという感情を思いっきり出してくる人でした。そして、救いを求めてくる人でした。

私が小さかった頃の母

私が、子どもの頃は、いつも掃除をしている姿か寝ている姿しか覚えていない。隅々まできれいに磨いていました。そして、何故か、常に具合が悪そうでした。実際、3回位手術をして、しまいには手術の時の輸血でC型肝炎になってしまいました(これが命取りになったのですが)

不条理に叱られることも多かったです。ちょっとおちゃらけると調子にのるなとか、ちょっと反抗すると「親の言うことは絶対正しい」と言われたりしました。小さい子どもにとって親がすべてだから、素直にそうかと思って言い返したりしませんでした。昔ながらの子育てですよね。

という母でしたが、良かったこともあり、何故か「勉強しなさい」とは言いませんでした。
教育は父に任せて、授業参観も父が来たこともありました(今では普通ですが)自分の体調が常に悪くて、子どもの事まで考えられなかったのかもしれません。

父が早世して

父にずっと寄りかかって生きて来た人でした。その父が早世して(64歳)それからは、その寄りかかりが私に向けられました。

私が結婚するときは、絶対一緒に住んでくれないと困ると、泣きつかれました。父を亡くしたその年に結婚が決まり、寂しかったのかもしれません。

私と主人と母の3人の生活が始まりました。
最初は無難に過ごしていたのですが、子どもが一人増え二人増えしてくると、いろいろと考えの違いが出て来て衝突することが増えてきました。冷静に考えて、親の言う事は絶対ではないと確信しました(前々から、わかってはいましたが)

理不尽なことも言うし、間違った事も言う、人間だものそういう時もありますよね。だけど、母は認めませんでした。常に自分は正しいと言ってました。自分の体調が悪い時は、人に寄りかかってくるのに。

私が、友達とご飯を食べに行く(もちろん、子どもが学校に行っている間)となると、いい顔しませんでした。食べている最中に電話がかかって来る時もありました。だからといって、私は行くことを止めませんでしたけど。
束縛はずっと続きました。

母が年老いて

年を重ねると自分で思うように動けなくなってきます。そこで、母は私にいろいろと指図するようになりました。人がどんなに疲れていようがお構いなしです。

ある日、母の調子が悪いから、今すぐに病院に連れて行って欲しいと言われました。そのために仕事を休めと。これから仕事に行こうと支度をしている最中です。いくらパートとはいえ、急に休むと迷惑がかかる。ここでジレンマに陥るのです。こういう日が続きます。

いざ、受診すると、大丈夫だったり、逆に私の方が胃痛になり受診して薬をもらったりなんてことも。

仕事場にも電話がかかってきたりしました。1日に3回以上の時も。今直ぐに帰って来てと。

朝4時くらいに携帯が鳴り、今すぐに二階に来て欲しいと(母は二階に自分の部屋がありました)

こうして母に振り回される日々が続きます。

毎日が母との闘いでした。

今度は、食欲がないから、栄養をつけるために毎日点滴に通うと言い出しました。その時は、本当に困りました。仕事をそんなに休めない。人に頼んで連れて行ってもらったりもしました。

ある日決定的なことが起こりました。便がでないので、浣腸をしてくれと。今すぐに。
またもや仕事に行こうとしている時です。浣腸するとシーツとかが汚れる可能性がある。「今ではなく仕事から帰ってからするから」と言っても納得しない。そして、浣腸をしました。案の定、汚れ物がでました。
もう私はここで頭がプッツンといった音が聞こえました。母との激しい言い合いになりました。もうダメだ。このままだとお互いダメになる。確信しました。

主治医の先生に相談したら、そんなに調子悪いなら、検査入院してみてはどうかと言ってくれました。
そして入院し、結果は今の所特に悪い所なし。入院は一週間しかできません。その後どうするか。自宅に帰るか施設に入るか。

そこで、私は以前、一階がクリニックで二階・三階が高齢者住宅になっている施設の広告を見たことを思い出しました。そこなら、具合が悪ければすぐに受診できるし、自宅と行ったり来たりできる。

医師と看護師が常駐しているという事で母は納得しました。納得しているように思いました。

母が入所してから、すぐにコロナが流行し、中に入れず会えない時もありました。そういう時も母は、携帯電話を駆使して電話をしてきます。その時もいい事は言わないので、出たくはなかったのですが、淋しいのだろうと思い話を聞くようにしてました。私のどこかで、自宅で面倒を見ないで、施設に預けたという負い目があったのだと思います。

母の最期

3年位たった1月。原因不明の発熱あり。一か月近く熱が下がらない。感染症でもない。医師は、尿路感染を疑い、腹部のCTを撮った所、肝臓がんが見つかりました。遂にC型肝炎の最終段階にきました。

施設の医師・遠方に住んでいる姉と相談した結果、告知はしないことにしました。その時、母92歳。手術・抗がん剤に耐えられる体力はありません。それ以上に母の性格から告知したら、精神的にどうなるか、そちらの方が心配でした。幸か不幸か認知機能は正常、いや年令以上にはっきりしてました。
それから8か月、母には嘘をつき続けます。

8月末になり、あんなに頭の切れが良かった母が、時計が読めないと言い始めました。これは、肝臓疾患の末期症状だったのです。それからは、坂道を転がるように症状が悪くなりました。寝たきりになり、しゃべることもできなくなりました。
そこで医師から言われたことは、あと一か月もつかどうかと。

それからの私は、毎日のように施設に通いました(ちょうど運良く施設の出入りが許可された時期でした)仕事も一か月は減らしてもらうようにお願いしました。
何故か、不思議なくらい母に優しく接することが出来る自分がいました。
まず行ったら、顔を拭いてあげ、髪をとかし、足や手のマッサージ、肩をもんだり。
もう、お別れが近い。

9月下旬になり、いつものように母の部屋に行くと、寝たきりだった母が、凄く暴れています。そのせいか掛け布団まで落ちてしまって。
どうしたんだろう。いつも目をつぶって、黙って寝ているのに、目をかっと見開いて、遠くの何かを見ている感じで。足は動かないので、手でもがくようにして。

しばらくして、母が落ち着いて、眠りについたようなので、その日は家に帰りました。そして、次の日の早朝、母は旅立ったのです。

母の葬儀

何故か、涙一つ出ませんでした。薄情なのでしょうか。
喪主だったこともあり、滞りなく見送らなければと緊張感があったのか。

昔の母に、そんなに体調を心配しなくても93歳まで生きることが出来るよと伝えてあげたかったです。大往生ですよね。笑顔で見送ろうと。

戦争を経験し、父を早くに亡くし、よく頑張って生きて来たと。色々な事が頭に浮かび、自分の気持ちが浄化されるようでした。
最後には、「ありがとう」いう気持ちにもなりました。
ある人が、「私の今までの母に対するドロドロとした気持ちを母があの世に持って行ってくれたのよ」と言ってくれました。本当にそうかもしれません。

母に対する私の今の気持ちは、「感謝あるのみ」です。








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