30年ぶりの高値におもう。時給800円だったころの話(3)
バイト先の草彅さんは本当に適当な人だった。でも、何か憎めない雰囲気で、いろいろと親切にしてくれた。
他のバイトの人とも仲良くなり始め、一緒にご飯に行くこともあったのだけど、草彅さんは来たことがなかった。
みんなの話によると、草彅さんはドケチで外食もしないし、飲み会とかにも参加しないらしい。結構な借金があるとかないとか。
僕もバイトに慣れてきたころ、草彅さんはそろそろバイトを辞めるといった。
僕に辞められると自分が辞められないというのは、本音だったんだと可笑しく思った。
草彅さんの退職日も近づいて来たある日、草彅さんが飯を食いに行こうと誘ってくれた。
どこに食べに行こうかと店を探したところ、草彅さんは
「今日は僕がおごるから金のことなら心配しないで好きなもの言ってよ」とおごる気まんまんだ。聞いていたのと随分違う。
僕が何を食べようか草彅さんの懐具合も心配しつつ決めかねていると、草彅さんは「そうだ。久しぶりにとんかつ食いたいな。うん。とんかつにしよう」と独り言のようにいって、この辺で有名なとんかつ屋さんに行くことになった。
「ちょっと、待っててお金おろしてくるから」
と、草彅さんが僕をとんかつ屋の前で待たせ、お金をおろしにいった。
おごるつもりなら最初からおろしておけばいいし、来るまでに銀行あったのに、なんで着いてから行くのだろうと、草彅さんの後ろ姿を目で追っていると、銀行……ではなく、消費者金融のATMに入っていった。
「マジかー。本当に金ないのかよ」と、いう衝撃をうけるともに、おごってもらうのが激しく悪い気がしてきた。
「ごめん。ごめん。待たせたね」と草彅さんが小走りで戻ってきた。
店に入ると、メニューを見て
「遠慮せずに好きなもの食べてよ」
と笑顔で勧めてくる。
いや。あんた、それ今キャッシングしてきた金でしょ。
と心の中で突っ込んでいたら
「僕はヒレカツにしよ。うん。ヒレカツがいい」と、また独り言のようにつぶやいていた。
「ヒレカツがいいよ。君もヒレカツにしなよ。遠慮しないでいいからさ」と、ヒレカツごり押しで草彅さんは勝手にヒレカツを注文した。
そして、真顔でこちらに向き合うと
「で、君は何やらかしたの?」
唐突に草彅さんが切り出した。全く草彅さんの言ってる意味が分からずきょとんとしていると
「いや〜。うちの店ってアレでしょ。超ブラック。だから、辞めないやつって、だいたいなんかやらかしてるんだよ〜」
と、鈴木さんが携帯を持っていないのはヤクザの女に手を出して、関西から東京に逃げてるからだとか、田中くんは難病でここくらいしか雇ってもらうとこがなかったんだとか、バイト先のやらかした人たちの話しを始めた。
「で、君は何をやらかしたの?」
僕は本当に何もやらかしていないし、しいていえば、ここしか雇ってもらえなかったというだけだと繰り返した。
「へぇ〜」と草彅さんは珍しいものを見るようにしていた。
そして自分が何をやらかしたのか話始めた。
「僕はさ、写真に憧れていて、恵比寿にある写真の専門学校に行ったんだよ。入学金も高いしカメラ自体も高価で、お金を借りて通ったんだけど、才能がなかったんだよね。結局は夢を諦めて残ったのは借金だけだよ」
と、楽しそうで少し悲しそうな顔をしていた。
「さあ、遠慮なく食べてよ」と、草彅さんは僕にヒレカツをすすめる。
「うまい。うまい。うまいなぁ」と本当に美味そうに、やはり独り言のようにいいながら、ヒレカツを頬張っていた。
きっとヒレカツなんて、本当に久しぶりに食べたのだろう。この辺では有名なとんかつ屋のヒレカツ。
ものすごく美味しいはずなのに、なんとなく寂しい気持ちになった。
店を出てひとしきりお礼を述べたあと「それじゃあまたバイトで」と、お互い別の道に分かれた。
僕は振り返って「これからどうするんですか?」と草彅さんの背中に問いかけた。
草彅さんは振り向いて「さぁ。就職活動でもするよ」と笑った。
「最後に君と話せてよかったよ」
そう言うと雑踏の中に消えていった。
草彅さんとの会話は、それが最後になった。
翌日バイトに行くとみんな「草彅さんと飯を食いに行ったんだって?」と聞いて来た。おごってもらいましたと言ったら、一様にみんな驚いていた。
僕もなんでそんなに草彅さんに気に入られたのかはわからない。
その後、何故か草彅さんとはシフトが合わず最後まで顔を合わせることはなかった。
飲み会嫌いの草彅さんは送別会も開かれることもなく、飲みに誘われることもなく、ひっそりと辞めていった。
今でもとんかつ屋のメニューで、ヒレカツを見ると高いなぁと、おごってくれた草彅さんを思い出す。
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