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子どもの声はちゃんと不快だ。

Twitterを見ていると、「電車の中で子どもが泣いていて、親に怒っているおやじがいた。許せない!」というようなTweetが定期的に流れてくる。それを炎上狙いの嘘だとかそういう野暮なことを言うつもりは全くない。私も見たことのある光景であり、実際、世間にありふれた話なのだと思う。
そしてそういうTweetには、「私は、泣いている赤ちゃんの声を聞くと『あ、生きてるんだな』と思って寧ろ安心します! 怒るなんてあり得ません!」という共感のリプライが複数ついているのが大抵だ。例えばこれ、とか具体例を挙げる積りはないが、検索すれば幾らでも出てくる。

私は、子どもの声はちゃんと不快だと思っている。
そもそも、なぜ子どもはあんなにけたたましく泣き叫ぶのか。それは勿論、泣くことで自分の要求を通す為だ。
泣いて、大人に不快な思いをさせて、大人がその騒音という不快を解消する為に、自分の為に努力してくれることを期待しているのだ。
子どもの泣き声に不快さを感じないというのなら、それはもう赤ちゃんの生存戦略を脅かす存在であり、動物として誤っているとしか言いようがない。
子どもの泣き声は、そういうある種のサイコパス様の精神的外れ値の者を除いた大人にとって不快であるようにデザインされている。ちゃんと不快なのだ。
そしてその不快を解消する為にする努力も、それが自分の遺伝子を後世に継承するという個体としての成果に繋がるのであればまだ受容できるものではあるが、自分と何ら関係のない他人の赤ちゃんについては到底受容できるものではない。
ただ一方的に益の無い不快さを味わわされているだけの時間でしかない。

先月、長野市は、とある市内公園の廃止を決定した。原因は、たった一人の住人のクレームだったという。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/226657?display=1

このニュースについて、「子どもの声を不快だなんて!」「子どもの声を受け入れられないなんて老害!」みたいなTweetがいくらでもTLに流れてくる。しまいには「少子高齢化の時代に、子どもを大切にできないなんてあり得ない」様のことを言う者さえいる。具体的なTweetは挙げない。これもいくらでも検索すれば出てくるからだ。

子育て経験のある者であれば、自分の子どもが世間に巻き散らかした声が騒音であり迷惑であったなどという無駄な罪悪感を受け入れることには抵抗があるだろう。
今後子育てをする蓋然性のある者であれば、子どもの声が他人の騒音になってしまうという事実を受け入れれば自分の行動の自由を失いかねない。
しかしいずれも自らの利益の為にポジショントークをしているに過ぎない。

前述のとおり子どもの声に特別な神通力は存在しない。子どもの声はちゃんと不快な騒音であり、それが自分に関係のない事柄であれば猶更だ。
では何故、繁華街で若者がたむろして大声を張り上げているのに、「ああ、若さが迸っている、生きてるんだなあ」と思い温かい視線を向けてやれないのか。その辺でいちゃついているカップルに対して冷ややかな視線を浴びせ、「少子高齢化の時代に、赤ちゃんは大事だ、即ち男女が盛るのは素晴らしいことだ」と優しく見守ってやれないのか。
語るに落ちている。「子どもを無条件に大事にすべきだ」という一見誰もが首肯すべきドグマを正当化する為の理屈だから、適当なことを言ってるだけだ。
ならばどうして家の中で子どもが暴れ回ることを許さず、「外で遊んできな。」等と言えるのか。家の中がめちゃくちゃになったって、それが子どもの元気の証明となるのならば良いではないか。親だって喚き散らされるのは不快だからだろう。
心持ち一つで騒音を騒音でないと思えるのならば、この世にパワハラなんて存在し得ない。耳元で誰かが怒鳴り声を四六時中あげていれば誰だって病気になる。ましてや身体の弱った老人や病人ならば。子どもに向ける優しさの一部でもどうして彼らに向けてやれないのか。判り切っている。ポジショントークに腐心しているからだ。

子どもの声は確実に不快だ。まずこの出発点を確認しなければ、結局は持つ者と持たざる者の断絶を深め、終わりのないお気持ちバトルに突入するだけだ。

その上で解決策を模索していかなければならないが、ゾーニングしかなかろうと思う。
持つ者と持たざる者をゾーニングし、若者と老人をゾーニングし、お互いがお互いの深いな部分が存在することは認識しながら、それを我が事とならない距離をとるしかなかろう。
「この町は、子ども偏重の政治をやる。」
「あの町は、老人偏重の政治をやる。」
自分がその立場になったらあの町に移り住めば良い。老人になってなお子ども偏重の政治が行われることを甘受できるのならばこの町に留まれば良い。町の中でも持つ者と持たざる者は近くに住まない方が良かろう。
誰もが声を上げられる社会とはそういうものだろう。だがそれを国民の断絶だ、許容できないというのならば、私は理解できないが、異なる立場の隣人を罵り続けて暮らすしかない。
誰にとっても幸福な世界は金輪際あり得ない。子どもの声が不快で仕方がないという私の言葉をあなたが不快に思うようにだ。

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