データ分析がもたらした評価資本経済
はじめに
人類は、資本を活用して生産効率を高め、生活用品を大量生産することで、永かった困窮から脱却を果たしました。この経済体制は「資本経済」として知られ、多くの人々がその利益を享受することにより、その価値は現代にも高く評価されています。
そして時代は進み、物質的に満たされた現代は情報化社会と呼ばれるようになりました。あらゆるものが相互に影響力を行使し合い、その評価をタイムリーに知ることができるようになった世の中は、逆説的に評価に強く影響されている世界とも言えます。
このnoteでは、現代を称した言葉の一つである「評価経済」が資本経済と高い親和性を持つことを、私の専門分野でもあるデータ分析の観点から紐解きつつ、今後の経済がどのように発展していくか考察していきたいと思います。
資本経済と評価経済
まず、あらためて資本経済について簡単に説明します。
資本経済とは、個人や企業が資産や生産手段を所有し、利益を追求する経済体制です。資本を集約して課題解決を試みるこの体制では、市場の価格は需要と供給に基づいて形成され、企業が経済活動の中心を担う一方、政府の経済への介入は比較的制限されます。資本経済は経済の成長や技術革新、個人の自由を促進する一方で、所得格差や環境問題といった課題も問題視されています。
資本経済の進歩とともにテクノロジーも進化し、生産や交換に伴う様々なコストを下げ、生産サイクルの拡大と効率化が進んだ結果、多くの人に廉価で高機能な生活用品を行き届けることを可能にしました。そして先進国の多数の人の生理的欲求が満たされた現代では、人々のニーズはマズローの欲求5段階説で指すところの、承認や自己実現といった社会的欲求を残すところとなりました。
これらのニーズは生理的欲求に比べ、多様で抽象的な内容に分かれています。例えば、著名な美術品を購入することで社会的な知名度を上げたり、単純に食欲を満たすためだけにも、ブランド品を嗜好したり食事する場所にこだわったりなど、必ずしも生活に必要でないものを敢えて購入するような欲求を喚起するトリガーが存在し、購入過程を複雑にしています。
そうしたニーズを定量的に評価するため、様々な指標を設けて傾向を分析しようという動きがデータ分析であり、社会的ニーズの変化を受け、資本経済が生活需要を満たし次の段階に移った結果生まれた言葉が「評価経済」であると私は考えています。
評価経済とは何か
評価経済という言葉は一般的な用語ではありません。元々、評価経済という言葉自体は2010年くらいから耳にするようになり、weblioの説明によると「評価と影響を交換しあう経済形態により現代社会を説明しようとする考え方」とあります。
評価経済という言葉は日本だけでなく、reputation economyという言葉で海外でも用いられています。reputation economyを冠するもっとも著名な書籍である「The Reputation Economy: How to Optimize」には、要約すると
個人の評判とオンラインでの存在感の価値までを一種の通貨として機能し、雇用、パートナーシップ、コラボレーション、社会的つながりの機会に影響を与えるという主張と、評価の影響下における社会様態、経済のあり方が紹介されています。
この考え方の下では、企業のブランド価値やサービスの信頼性、また、個人の学歴・知識・信頼・専門的評価・SNS上の評判・交友関係・趣味や特技といったパブリックデータから、職歴・年収・既往歴・犯罪歴・家族構成などといったプライベートな情報までに広い意味の資産として価値を持つものとして捉えることができます。これらの情報を一括してソーシャルアセット(社会的資産)として捉え、企業や個人の社会的な価値や信用を形成し、経済的価値に変換する考え方とも言えるでしょう。
評価資本経済の台頭
ところで、私はデータ分析と資本経済の方法論が、その構造や働きにおいてお互いよく似ていると感じています。データを集約し多くのデータを持つほど分析して得られる結果の精度が増すのは、資本経済が資本を集約し、レバレッジをかける様子と似ています。
データ分析によるニーズの評価と、データを資本とみなし集約する経済様態が相補的に影響し合い拡大していく様子は「評価資本経済」と呼べると考えています。本章では、2010年以降のビジネスが評価資本経済を背景に拡大した流れを追っていきたいと思います。
静かなるゲームチェンジの狼煙
日本で評価経済という言葉を指すときには、先行する著作の影響もあってか、X(旧Twitter)やFacebook、YouTuberでの活動をフォローしている人の数が影響力の指数と示されるといった、およそ一般の知名度を影響力に換算し誰しもそういうモデルを目指す時代が来る。という主張のイメージの方が強いと思います。
しかし、先に海外でも評価経済という言葉が用いられていることを示した通り、私はもっと広い文脈で語られるべき言葉であり、評価経済という言葉で説明されてなくとも、現代はそのような時代としてはっきりと到来していると考えています。
つい先日、社会のあり方がこれまでとは違う形になったことが明文化された、まさにゲームチェンジの声明とも言える発表がありました。
国連が2025年にもまとめる国内総生産(GDP)推計の新たな国際基準では、データを「資産」と位置づけるという内容です。
評価経済では評価を一つの通貨として機能させると説明しましたが、評価を測定するためのデータが資産として認められたということは、評価を中心とした経済様態が国際的に認められ、評価経済が公式に世界的に市民権を得た。ともいえるでしょう。
データ分析がもたらした社会影響
データが資産と認められた背景には、2010年代にデータ分析がもたらした社会効果が大きく影響していると考えています。
2010年代初頭は、AirbnbやUber、Netflixなどのシリコンバレーをはじめとする欧米諸国の新興企業圏がグロースハックと称し、彼らが提供するサービスの影響力を操作・計測するために、様々な分析手法が試されました。デジタルマーケティング、A/Bテスト、製品の改良、ソーシャルメディアを利用した広告などを利用し、得られたデータを指標化・分析して活用し大きな効果を上げ始めると、データ分析手法が一気に広がり始めました。
政治の世界においては、代表的な事例として2012年の大統領選はネイトシルバーによるによる精密な予測分析が注目を集め、一方、2016年の大統領選ではFacebook上でのケンブリッジ・アナリティカの活動と、個人データの収集・分析が大きな問題となりました。
社会運動においては、2010年末からのアラブの春でソーシャルメディアの影響が大きかったと指摘され、その中での情報操作やソーシャルメディア分析が問題視されました。
他にも事例は無数にありますが、2010年代はデータ分析によって人々の活動が具体的・即時的に指標化され、社会や市場に大きな影響を与えた時代でした。評価が指標化され市場に影響を与える中、評価経済という言葉が生まれたのも自然な流れと考えられ、データが資産として位置づけられた流れもこうした背景を踏まえると必然であったと言えるでしょう。
資本経済と多様性社会の帰結
データを収集し活用する具体的な手法と、過去の資本経済との類似性について少しだけ簡単に追ってみます。
これらのニーズに応えようと初代iphoneが2007年に登場し、そして2010年代にスマートフォンは爆発的に普及しました。アプリという形で、生活・レジャー・健康・金融などといった利用者のありとあらゆるニーズに応え、同時に利便性追求のため利用者のデータを収集しました。
そして、これら多様なニーズを集約することに成功すると、AmazonやNetflixなど先に挙げた新興企業がデータ分析の統計的な手法を駆使して、ユーザーの過去の購買履歴や閲覧履歴を基に、個別のおすすめ商品や映画を提示しています。これにより、彼らは消費者のニーズを正確に予測し、リソースを集中して課題解決を図りました。
このような手法は、資本経済の中での生産効率や需要予測などの集約的な手法の延長であり、例えば、20世紀の自動車産業において、フォードがモデルTを大量生産する際に、消費者の需要を予測し、効率的な生産ラインを構築した、このような手法が一般的なものとなっていく過程と似ています。
以上で挙げたような産業構造の移行や効率的な手法の変遷を見ると、データ分析と資本経済はもとより近い存在であったように思えます。
ソーシャルアセットがコモディティ化する時代
そして、2010年代はおよそネットショッピングを中心にデータ分析が利用されていましたが、2020年代以降は個人の影響力に対してデータ分析手法が加速する時代と考えます。
海外においては、Facebookは変わらず世界でトップの利用者数を維持し続けていますし、SNSの利用方法も先に挙げたTwitterやYouTube、Instagramに代表されるような承認欲求を満たすツールとしてだけでなく、LinkdinやFacebookでの活動がビジネスに直結するため、一般の人でも高い割合で利用しています。日本でもWantedlyやYOUTRUSTなどのようなサービスも現れ、日本独自のSNSとしてシェアを獲得しつつあります。
ですが、元々上に示したような自らのソーシャルアセットを高めて利用したいという欲求は人に最初から備わっているものであり、それが生活水準が高くなり生活が標準化したことで、新たに他人との差別化を図るための手段として顕在化したものと思われます。
昔から、一部の貴族や上流階級、教養ある人間のような生活水準が高かった人たちは、ソーシャルアセットが彼らの属する社会における社会証明であることを自覚しており、それを高めることにリソースを費やしてきたと考えます。そして、現代では価値があるとされているものが以前とははっきりと異なり、新しい形の富裕層はシン富裕層などと呼ばれています。
富裕層でない人にとっても、現代ではインターネットによりソーシャルアセットの価値が目にわかるような形になったため、評価資本経済のプレイヤー参入数が増え、それに伴いソーシャルアセットの価値がコモディティ化したと考えます。
評価資本経済の問題
評価資本経済においては、経済における価値基準がこれまでと大きく変わることから、それに伴う新たな問題が浮上することが予想されます。ここでは、評価資本経済において今後現れてくるだろう問題について掘り下げてみたいと思います。
個人が評価を交換することの難しさ
まず、ソーシャルアセットは観念的な存在であり、サービスや才能、センスといった属人的な要素と強く結びついているため、個人とソーシャルアセットを切り離すことが難しくなります。また、ソーシャルアセットを評価するためには統計学的に高い専門性が求められ、個人での価値判断は、統計の知識やデータ収集の観点からも難しく、その上、分析結果自体が価値を持つこともあるため、結果が一般に共有されることは稀です。
そして、変化の激しい現代においては、どんなものが価値を持つか予想することが非常に困難であり、一概に優れているものが価値を持つと言えないケースも多いです。特にエンターテインメントの分野においては、流行のサイクルがとても早くなっており陳腐化も早く、そのため一般の人が自身の持つ価値をいつまでも自身の元にとどめておけるか難しいです。
データ管理の複雑さと監視社会の到来
また、データをマネジメントすること自体も専門性が必要となり、一個人での管理を難しくします。データ管理手法としてDMBOKという体系があるのですが、関連する大項目だけでも11項目もあり、広範な知識を要することがわかると思います。
一般の人にとって身近な問題としては、EU一般データ保護規則(GDPR)や、クッキー等規制などの問題、個人情報保護の度重なる改正、また最近では、渋谷駅周辺に100台のAIカメラを設置し、人流データを取得・解析するプロジェクトが問題視されましたが、裏を返せば、それだけデータというものが価値のあるもの、資本であるということの証左とも言えます。
これらのことから、データの問題に関しては個人単位よりは企業単位での問題として扱われることが多くなると考えています。
データと機械学習が格差を助長する
そして、おそらくは企業の所有するデータ量の多寡と利活用の成熟度が資本力の差として現れ、データを資本と見做した新たな所得格差の問題となるでしょう。私の観測範囲の話ですが、データ利活用のレベルはその企業の規模や知名度と比例しておらず、今後はその成熟度に伴い企業のパワーバランスがシフトしていくと考えています。
また、昨今の機械学習技術の急速な発展も、学習用データ量が大きく寄与します。機械学習の学習効率は人間の何千倍とも言われており、データがあればあるほど有利になるので、そうした動きに反対する活動が特にイラストや声優の世界で大きく問題視されています。やがて、単純な技能だけで勝負するだけでは、個人レベルでの努力や才能では太刀打ちできなくなるでしょう。
こうした流れも、データを資本としレバレッジをかけることと似ており、持つ者と持たざる者の差は開いていくでしょう。
評価資本経済下における生きづらさの正体
さらに、評価資本経済は、今現在価値があるとされているものが指標化されることで、競争と対立を煽ることに繋がりやすい側面を持ちます。
資本主義における競争と緊張の関係は、欲望の模倣理論でわかりやすく説明することができます。この理論は、人の欲望は他者を模倣することから生じるという主張で、我々は他者が欲しがっているものを自分も欲しがる傾向があり、その対象が価値を持つと感じると指摘します。
この考えは必然的に競争を生み出し、集団で同じものを欲しがることがやがて個体間に緊張と対立を生じることにつながり、緊張を解消するために集団内の力学の歪みが集団内の弱者に向けられることになります。
こうした問題は、現代ではアメリカ、日本、イギリス、韓国などといった格差社会国で顕著であり、たとえばアメリカでは10代でSNSの影響でメンタルヘルスの問題が急増したり、一方イギリスでは、恋愛リアリティーショーの人気が加熱して出演者にヘイトが集まり、出演者にメンタルサポートが義務付けられたりと、明確に著しい悪影響が生じているにも関わらず社会的ニーズの高まりにより取りやめることができない状況となっています。
また、自身が仮に資本経済下で高い評価を得ていたとしても、本来自分がやりたいこととかけ離れたことで評価されていたとしたら、自分の描く自己像と実際の自分に大きな乖離が生じて自尊心を損ない、恒常的に高い社会的ストレスに晒されることになります。
こうして、評価資本経済は多くの人を対象にプレッシャーを与え続けるのです。
これからの評価資本経済
評価経済と資本経済は親和性が高く、寡占化と分断を加速するという話をしてきました。最後に、評価経済と資本経済が合わさって導き出す未来と、持続的な社会のためには守るべき基本原則があるという話に繋げたいと思います。
強力な資本主義と矛盾
資本経済は社会全体としては生活レベルを底上げしてきました。2050年までには世界の貧困層の数は相当数減少し、世界の約2/3が中間層に属することが予想され、今後もその影響を増し続けることでしょう。
しかし、この中間層の属性をより詳細に追ってみると、今現在の主要先進国の割合は2050年には現在の半分以下になり、中国やインドのような東南アジア圏の割合が顕著になります。日本人に至っては相当数の割合で減少することが予想されています。かつてのアルゼンチンやベネズエラのように、栄華を誇った国が短期間のうちに没落するような途を辿る国も出てくるでしょう。
ここで、資本経済の問題全体を直観的に捉えるため、長沼真一郎氏の著書「現代経済学の直観的方法」から縮退とコラプサー化という考え方を引用したいと思います。
この考えは、ともに量子力学から導入した概念を用いて説明され、経済システム全体を食物連鎖に例えます。端的に説明すると、縮退とは生態系の分野で「少数の種だけが異常に繁殖してほかの多数の弱小種を駆逐し、種の寡占化が進んでいる状態」であり、コラプサー化とは、その状態で固定化されてしまうことを指します。
正常な食物連鎖においては、在来種も希少種もシステム全体として適正な数を保ちながら共生できていましたが、私欲のためにシステムの一部が大量に資源を消費し肥大化することで希少種を絶滅に追いやり、回り回って生態系全体を大きく壊されることが起きており、同様のことが資本経済でも発生するという主張です。
縮退とコラプサー化の詳細については著書をご覧になって頂ければと思いますが、この主張は資源を大量に消費することの危険性のみならず、閉じた経済システムの中で資源を消費し続けることも、システム全体の破壊に消極的加担していることも説明しており、未来を暗示する形になっています。この点については以降でより詳細に追っていきたいと思います。
企業とテクノロジーが人を紐帯する未来
今後の社会の主体の移り変わりについて予想してみます。
グローバル化が進むにつれ、国家の枠組みを超えて活躍できる機会はますます増えてきます。今でさえ一国の国家予算を超えるような超国家企業も現れていますし、資本主義が続く限り、社会の中心は国ではなく企業にシフトしていくでしょう。個人でも、例えば富裕層はタックスヘイブンを利用し、自分に有利な税制の国で生活したり、リアルタイムで海外の企業と仕事をする人も増えています。コモディティ化が進むということは、自分に有利なところで活動するチャンスが生まれるということです。
元々、国家とは地理的にまとまった集団が資源を集中して共通の問題に立ち向かうために生まれたものです。しかし、インターネットやクラウド技術・電子商取引などの近代テクノロジーが距離的な障害を無くしたコミュニケーションを可能にし、世界中の人が同じ目的のもとで集まりやすくなりました。
加えて、先に生きづらさの話をしましたが、例えば、リベラルを標榜しながらも国民が強い迫害意識を持たずに適度にテクノロジーの恩恵を受けているカナダや北欧諸国、太平洋諸国のような国もあります。資本主義の問題をあげつらいましたが、生活のしやすさは結局周りや社会制度との関係によるものであり、昔よりは機会が均等になり選択肢が増えたことで、自分に適した制度を選択する余地はますます増えていくでしょう。もっと言えば、国が担保できない社会保障を体力のある企業が肩代わりすることで、人を集めやすくする動きも現れるでしょう。
評価資本経済の恩恵を受けたい人は、華美で飽食な生活をする代わりに競争の激しい世界に住み、穏やかに暮らしたい人は社会保障が充実した国に住み企業に勤める。それらはトレードオフの関係なので、どちらも選ぶことはできません。そうして、グローバル化と評価経済が進むにつれ、思想、能力の同質性の高い人たち同士で集団を形成し、集団の性質は均質化していくでしょう。
境界が曖昧になった世界で
一方で、テクノロジーが進歩するにつれ、これまで誰も経験したことのない問題が現れてくるでしょう。この先、必ず遺伝子操作やニューロデバイス、若返りの研究といった人間の能力を直接底上げする技術が登場し、これまでの歴史になかった未知の問題に発展するでしょう。
自身のアイデンティティが国家に依存しなくなり、身体や感覚器官を機械化し能力を自分の意志で向上させることができると、何が自分を自分たらしめるのか?という問題に直面するでしょう。すでに生活の大半をSNSとの対話に費やしている人も多いですし、メタバースのような技術がさらに進むと、そうした実情に合わせた倫理や法律を規定する必要に迫られます。
これらは全て効率化を推し進めた結果であり、一部の環境に最適化させることで残りの大部分を捨てていくという考え方です。自分の欲求を極大化することを史上目的とするような考えは、自分の生活圏で全てが完結しようとするように働くため、上で示したコラプサー化をますます促進するように思えてしまいます。
本当の意味で持続可能な社会
以上、少し短絡的・性急に未来を予想展開してみました。
些か牽強付会な論展開であった思いますし、私は世の中がこのようになるとは決して考えていません。ただ、データ関係の仕事に従事している者として、より包括的な問題解決を目指したいという思いがあり考えを表明しました。
これまでの話で、データ分析の同質性・予測を強化する考えと、人の本来の性質による価値追求的な考え方、そして資本集約によるレバレッジをかける資本経済の働きがそれぞれ相乗効果を示し、その論理を敷衍した結果と、これらの動きが強い排他的な性質を備えていることを指摘しました。
そして、おそらく多くの世の中の人がそうした背景を意識的・無意識的に感じているところから、このところSDGsやダイバーシティという社会包摂の言葉が声高に叫ばれているのでしょう。何かの目的のために何かを犠牲にする不安がある社会、価値観が転倒しやすい社会は、次は自分が対象になるかもと考えると誰もついてきませんし、持続性に対する信頼性を獲得することはできません。
社会的包摂を考えないといけない理由は、突き詰めれば極めて単純で「そうしないといけないから」です。世の中にはいくら価値が変わろうとも相対化してはいけない普遍的なものがあるのです。何もかも相対化してしまったら人は生きる軸を失ってしまいます。
ですが、あえて説明を追加するなら、種全体としての生存戦略的には、たくさんの属性の人間を抱えた方が主全体として生存確率は高くなるからです。これまでの歴史で、価値観の転倒は何度も起こってきましたし、社会全体が多くの戦略価値を持っている方が種全体として生き抜く可能性が上がります。世の中の論理は、資本経済の優位性のために弱肉強食であるという理解に進みがちですが、より適した説明としては適者生存と言い替えた方がいいでしょう。
評価経済下において現代の価値観からあぶれてしまった人たちをどうやって救うのかが社会包摂であり、社会福祉の役割です。それは評価資本経済の考えとは大きく異なるので、評価経済との両輪をどう維持していくか、それが今もこの先も社会課題になるでしょう。SDGsやダイバーシティといった概念もまだ若い考え方であるので見守っていきたいと思います。
参考文献
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