痛み分け

「僕の乱暴な発想や思想をどうぞお赦しください。」と神様に前置きしてからツイートすることにします。今ふと「募金」"donation"について思うことがあったので、連ツイすることにします。いろんな考えがある中の、末席に加えていただけると幸いです。

自分のお金を誰かの役に立つために捧げる、という行為そのものはどういう意味があるのか、って考えた時、結論から言って、額の大小に関わらず、その「誰か」が何に困っているのかを知ること、関心を持つことがそもそも「自分の一部を捧げる」ことの主たる目的なのではなかろうか、と僕は考えています。

献金や募金を集める時、集める側は集計側ですから、当然その額の大小は気になりますし、一喜一憂もします。でも、根本的に募金や献金の主たる目的って、「人に関心を持ってもらうこと・知ってもらうこと」なので、一円でも良いから、その後、活動を追跡してね、と言うことなんだと思います。

だから、募金や献金などの捧げ物をする時に、私たちがすべき最も大事な事は、「俺の金、どうなったんだろうな。」と思えるくらいの額を捧げる事が、捧げる行為の主たる目的に適った捧げ方なんだろうと僕は考えているんです。

その意味で、お金が余ってるし、いいや、あげちゃおう、って気持ちで捧げても、自分にfeedbackは返ってこない。だって痛くも痒くもないから。小学生や中学生が千円とかを募金することには大きな意味がある、と僕が思うのは、そこに理由があるんです。

子供にとって、千円ってめちゃデカいです。痛い金額。簡単に出せないです。五百円だって大きい。でも、もしその千円を出したら、人間だから、あの金、どこいったんだろう、ってずっと覚えてると思うんです。捧げる事の意味って、その「ずっと覚えてる」にこそあるんだと僕は思います。

お金が適切に使われてない、と感じたら腹が立つし、逆にすごく上手く運用されていたりすると、もうちょっと出しとけばよかったかな、と思うと思うんです。人間ですからね。欲目と贈与の表裏一体ですね。面白いですが、真理だと思うんですよね。

だから、募金や献金、捧げ物をする時は、自分がずっと恨めしく覚えていて、あの金、どうなったん、って思えるくらいの額を献金なり、募金なりする方が、募金する側・される側にとってwin-winではないかな、と僕は考えています。

お財布の小銭を募金なんかしたって、痛くも痒くもない。そもそも一円、五円、なんて、レジで使う時以外、意識すらしない。ましてや電子決済だったら、もっと何も考えないと思う。でも、1万円を募金したら、話は違ってくるんです。

1万円ってすごい額ですよね。洋服を買う時だって、美味しいものを食べる時だって、贅沢な額ですよ。それを「自分が見知らぬ誰かさんが助かる為にあげる」ってなかなかできる事じゃないんです。敢えてそれをする、って事に「捧げる」事の意義があるんです。

お金に困っている、生活に困窮してる、恒常的に支援を必要とする人にポーンと有金を1億上げることも大事ですが、お金が有り余っててあげる、っていう姿勢だったら、その寄付行為には余り意味がありません。だって、あげたことすら忘れてしまうので。

お金をいくらあげた、と覚えておけるくらいの額を出す事によって、いつまでも執念深く、あの金な、と覚えているもんなんです。それこそが、支援の継続、支援への関心を引き出し続ける継続支援に繋がるんだと僕は思っています。

今の世の中、困っている方はごまんといます。またお金を持っておられる方もごまんといます。大事なのはそういう双方が繋がり続けること。継続ですね。一度寄付して終わり、じゃなくて、継続して、困っている人を記憶に留めて生活する事こそ、最も大事な寄付行為なんだと僕は考えています。

額は一円でも一億でも良いんです。関係ない。自分が寄付する先への興味関心が向くにはいくらくらいを出せば良いのか、と言うことを考えること、感じることが大切ですよね。そして覚えて継続していくこと、つながり続けること、その事に最も意味があります。

継続の仕組みづくりはどんな組織でも、場面でも、立場でも、とても大切であり、かつ難しいライフハックの一つだと思います。だからこそ、行動を起こしていくときに立ち止まって考えて、さらに行動し続けることが大切なのだと思います。

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