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蔵元日記vol.527【dancyu3月号・日本酒特集】

dancyu3月号 日本酒特集

dancyuの3月号は恒例の日本酒特集です。その中に「419蔵アンケートから見えてきた・酒蔵の今」というページがあります。それを見ていましたら獺祭の事が出てきました。「造りに関わる人数」の項で、獺祭が剣菱や白鶴の90人を軽く追い越して製造スタッフ130人で日本で一番多い蔵なんだそうです。

この記事を読む限り、一般的によく言われる「獺祭はデータ化と機械化により手のかかる純米大吟醸の量産に成功した」という話と整合性が取れませんね。出荷数量で国内順位が12位、出荷金額でもおそらく全国第6位にすぎません。にもかかわらず製造にかかわる人数はダントツ1位。

これではとてもデータ化はともかくとして、「機械化の旭酒造」とはこのスタッフ数と製造の数量を比べる限り言えそうにありません。また、名だたる地酒蔵の中においても製造数量と人数のバランスを見た時、相当人数側にバランスが傾いています。

これで一部の人が言うように「獺祭は機械で大量生産できる」なら、他の酒蔵は何なんでしょう。「機械ではなくて手抜きに成功した」ということでしょうか。

まあ、データ化は別として機械化云々は獺祭を貶めたい人たちの実態に目をつぶった発言がいつの間にか独り歩きしているということでしょうが、それでもこれだけ一般に流れている流説と真実に落差があるのはなぜか?

獺祭固有の実情

実はこの背景には獺祭固有の実情があるのです。獺祭を造るには「手間」がかかるのです。この「手間をかける」という事を発見したことが今日につながったと考えています。私が旭酒造を継いだときは普通酒ばかり700石を蔵人4人で製造する酒蔵でしたが、それを3万石で製造スタッフ130人の酒蔵に成長させました。その過程で自分自身の考え方に「ドンデン」が来たのです。
どういう事かというと、「時間をかければ自分のようなどんくさい男でも人に伍していける」と気が付いたのです。私が子供時代、勉強も駄目なら運動も駄目で暗い少年時代を送ったことは知ってる人もいると思いますが、山奥の負け組の酒蔵でどうにも打開策の無い八方ふさがりの酒蔵の社長として足掻く中で、「時間をかける」ことを発明したのです。「他の人の倍の時間をかければ私のようなものでも経営者としてやっていける」と気が付いたのです。 

だからいまでも1年365日酒蔵の事を考えています。当年とって71才ですから夜目が覚めます。すると、いつの間にか酒蔵の事を考えている自分に気が付きます。でもこれが楽しいんです。私にとって酒蔵は趣味ですから。

手間という考え方

この考え方を酒の製造に転用したのです。勿論日本には「怖い怖い労働基準局」がいますから、製造スタッフ個人個人の就業時間の負担をかけることはできませんが、要は人数をそろえて手間をかければ私たちにも良い酒に挑戦できることに気が付いたのです。何も伝統ある銘醸蔵でなくても歴史も何もない山口の負け組酒蔵でも良い酒を造ることができるかもしれない。大発見でした。

ところが杜氏制度はそれなりに近代資本主義(近代といっても江戸時代ですけど)の中で出来上がっていますから、「手間をかける」ということは良しとされてこなかったのです。もっとも皆で一緒に洗米して皆で総がかりで麹を造ってと、年に一回鑑評会用の酒を造るときには能率無視だったのですが。

しかし、契約ベースの杜氏さん達にすれば、年に一度の鑑評会の出品酒造りの時は別として、「少ない工数でたくさんの酒を造る」ということは翌年の自分や部下の蔵人たちの契約継続のためには大事だったのです。だから、製造の大多数を占める主力の酒を造るときには手数をかけないということは大事な暗黙の了解でした。

ところがそこに獺祭が「市販の酒に手間をかけて造る」という全く違う概念の酒造りを持ち込んだのです。つまり、「美味しい酒という事を追求した純米大吟醸を市販する」ということですね。杜氏さんや横並びを大切にする酒蔵からすれば反則技ともいうべきものだったのです。「俺たちだって獺祭のようにここまでやればできるよ」と、杜氏さんの会合で聞いたこともあります。
しかし、よく考えてみるとこの手間をかけるという考え方は日本人にはしっくりくるのです。江戸時代に限られた農地の中で如何にして最大の米の生産高を達成し村の人口を養うことができるかを求めて、無意味の一歩手前まで米作りに手をかける考え方が生まれたのです。つまり、皆が豊かにはなれないけれど農家の長男だけでなく、ともすれば厄介者になりかける次男三男も農村の一員として維持できる仕組みだったのです。要は獺祭の酒造りはすごく日本的な考え方の延長線なのです。


そして、昔と違って技術の発展した現代においてはその手間をかけることにより収量の増加ではなく品質の追求ができるのです。明治以降の日本がモノづくりにおいて高い評価を得てきたのはこれがあったからです。

しかも、この考え方こそ、モノづくり大国としての日本が近年諸外国との競争の中で見失っていたものと思います。そして、このどこまでも、ある意味古臭い日本的価値観を再発見した獺祭が日本酒輸出でダントツ1位(全体の17%)ということはこの価値を外国人も理解できるということですね。

そしてこの手間の概念を現代にフィットさせる最も大事な条件があります。それは「少しでも良い酒を造りたい」という「ひりつくような欲望」です。これがなければ「手間をかける」ことはマイナスの意味になってしまうのです。田舎では地域の会合などで30分で終わる話を延々と3時間かけ、三人が一時間で終わる作業を地域住民総出で一日がかりでやる、なんてことがあります。しかも、これを反省なく続けることが「地域を巻き込んで活動する」ことであり、地域社会に溶け込むためには必要なことといわれるのです。大体これで地域は年寄りには快適ですが若者には息苦しいものになるわけです。これなんか日本固有の手間の概念がマイナスに働く象徴的な事象ですね。各地で「町おこし」が失敗する背景にはこれがあると思っています。つまり、地域の構成員は満足するけど優れたものが生み出せない。

より良い酒を造ろう、より良いものを造ろう、より優れたものを造ろう、とすることを忘れて、昨日と同じものでいいとなった時、「手間をかける」は「皆が保守的にやる」になってしまい、結果として人件費の安い国や経営者の経営判断の早い企業に負けるのです

この「良いものを造らなければいけない」という欲求は「手間」の概念には不可欠なのです。そしてよいものを造るという事は高い収益につながらなければいけません。この高い収益のバックアップがなければ製造従事者のより良い所得につながりません。所得の二分化まっしぐら、というより全体の所得が低下してしまう。今の日本みたいですね。

ただし、怖いのは良いものと高収益をつなげる仕組みがなければだめという事です。これは経営者の仕事ですよね。自分も含めて思っていることですが、経営者は「良いものを造っていればいつかわかってもらえる」なんてことを言っていてはダメなんですね。ここには従業員の「やりがい搾取」につながる道しか見えません。

ただ、この方向は必然的にコスパ主義者や今の日本に変わってほしくない人たちの気にはいらないでしょうね。しかし、まだまだこの「手間をかける酒造り」というものを追い求めたいと思います。

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