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自分の中で消えない“死にたさ”

おはようございます、のだめです。
いまSAでこのnoteを書いています。

写真はおととい、田中かえさん(Twitter→@helloverysunday)に描いてもらった絵です。腕のキズに絵を描いてもらいました。
かわいいですよね…。

昨日おとといと東京で仲良い友達と会って色んなとこ回ったりしたんですよ。
すごく楽しかったし、絵もいいペースで描けたし自分の人生の中ではだいぶ上位に入るくらいのいい週末を過ごせました。

でも、友達と電車待ってる瞬間とか、ふと
(今1歩踏み出したら死ねるな?)とか思ったり、友達と別れて高速乗ってる時も
(ここでハンドル急にきったら死ねるなぁ)とか思ったり“希死観念”が消えなくて、それについてちょっと考えてみようかなぁって思ってnoteを書き始めました。

僕、小さい頃に妹を亡くしていて、その影響もあってか小さい頃から“死”に関して考える事が多かったと思います。
今でもはっきりと覚えてるのですが、小5の頃テストを解き終わってボーッとしてる時なぜか(今、自分"生きてる"んだな)って考えに至ったんですよね。

その頃から"生"は"死"との対比で成り立っているんだなと思いながら生きていました。
生きていることを手放しで喜べない人間なんです、僕は。

だからこそ、医療に興味があって医学部へ入る道を選んだのですが待っていたのは鬱病でした。
中学高校と過ごしていた中で、僕みたいに生死について考えている人はひと握りしかいなくって、医療系を志してる人ならあるいはと思って医大に行ったのですが特に変わらなかったです。
むしろ、実習回ってる先輩たちでも考えてるのはどう楽に実習を終えるかということで、そんな感じなんだぁってすごく絶望したのを覚えてます、その事が鬱に拍車をかけたのでしょうね。

今は薬に生かされてる状態なので、すごくギリギリを生きているんです。
なので、なるべく感情を波立たせない様に生きているのですが、嬉しいことがあったり楽しいことがあったりして感情に波が立つと“死にたい”という感情も元気になってしまうのかなぁ。

でも、“死”という選択のもたらすデメリットも十分に理解しているつもりです。
妹を亡くしたときに周りに与える影響を身内として体験しているので、もう死の選択はしない気がします。

以前1回選びましたけどね、鬱が酷いときに周りの人から粗末に扱われて、カウンセラーの人に助けを求めたのですが帰ってきたのは
「そうなんですね。」
という、マニュアル通りの傾聴の姿勢で。

医学を学んでいたので、患者さんの話の聞き方とかも学んだんですよ。
確かに、相手を否定しない、話を聴くというのはすごく大事だと思います。
それに、あまり肩入れしないというのも医療従事者の精神を守るためにも必要というのも理解しています。

でも、あの時傾聴されたのはすごく辛かった。
自分の状況を伝えるかどうかすごく悩んで、話をすると泣いてしまいそうだからODした事や過食嘔吐していた事、今の症状などを文にまとめて渡したんですが、その時はもう少し詳しく訪ねてほしかった。それか、担当医の人に伝えておきますねの1言でもいいから欲しかった。

今の僕なら、もうだめだな、べつの精神科行こう、と思えたのでしょうが、あの頃の僕にはそんな気力が残っていなくて、この世の全てに見捨てられたような気がして、ODして腕を切って生きててごめんなさい、と口走りながら意識を失いました。

でも、市販薬では死ねないので血塗れで目が覚めて、ああぁ、生き残ってしまった、と思って掃除して授業を受けに行きました。

それから、病院を変えて今は小康状態を保っているのですが、心の奥底の死にたさは消えないです。

なんで僕じゃなくて妹が死んでしまったんだろう、とか、周りの人は戦いながら生きていけているのに僕はなんで大学にすら行けてないんだろう、とか常に思ってます。

尊敬している人とか、きちんと周りと闘いながら生きている人に会うと余計その思いが強くなります。

でも、そういう人たちと付き合っていきたい。

そこで脳がバグるんでしょうね。
クズな人とか、人間性が未熟な人をみると、僕はこんな人にはなりなくないな、だから人が嫌いで独りでも大丈夫、自分で状況をなんとかして生きていこう、と思えるんですが、人間できている人と会うと、なんでこんなきちんと生きている人が僕なんかと一緒にいてくれるんだろう、この人は信用できる人だけど、僕はこの人にとって信用に足る人間なのかな、みたいに自己嫌悪のループに入るんです。

僕、中高一貫の進学校に通っていて、一時期落ちぶれたんですが、努力で現役で医学部に入ったんですよ。
その時、上か下か、勝てるか勝てないか、で周りを見ていて、下の人を心の中で見下す事で自分を律していたんです。反面教師しか周りにいなかったので。

なので、僕が鬱になってなにも動けなくなった時、自分が無価値な人間だ、と自分で自分を見下してしまって、なら生きていくのを辞めようと思って一度死を選んでしまいました。

その頃と比べると、だいぶ心が広くなったのですが、それでもまだ長年続けてきた考え方は抜け切らないです。

人が嫌いで、自分が嫌いで、でも生きていくしかなくて、苦しくて。
死にたいけど、死ねなくて。

嬉しいことに、最近好きな事をしながらその中での人間関係が広がってきて、一緒にいて楽しい人が増えてきたのですが、その分さっき書いたドロドロの感情が巻き起こるのも増えて。

そんな状況を打破できるといいな、と思ってしばらくやっていなかった(というよりできなかった)バイトを始めようとおもっているのですが、できるのかな。
人と会うと死にたい感情も波立ってしまうから。

もう少し心が落ち着いてからの方がいいのかな。

この感情を実際に会って話せるほど仲良い人がいないんですよね、僕。
だから、noteに書いているのですが、別の世界で生きている人の意見が聞きたい。

でも、カウンセラーや医師、彼女(別れた人です)やそこそこの友達には、全て裏切られた経験があって、話す勇気がないです。

大学の友達は、ある意味打算と上辺で付き合っている人が多くって、中高と仲良い友達は物理的な距離があるので会う機会が少なくって。

普段は孤独で平気なのですが、仲良い友達や尊敬できる人に会うと寂しくって、死にたくってが溢れ出てきます。

彼女を作るのがいいのかなとも思うんですけど、こんな僕を受け入れてくれる人は少ないだろうし、下手すると巻き込んでしまう。
周りを巻き込んでしまうのが1番怖いです。
僕なんかのせいで相手の人生を狂わせたくない。

薬とタバコとで精神を安定させて生きているのですが、そろそろ限界が近づいています。

今通ってる病院の先生、すごくいい人なんですけど耳が遠くって最低限の話しかできないんですよね。
他の病院探そうかな。

生きているの、辞めたいな。
来世はネコかクラゲがいいな。

もし、このnoteを読んでくれて共感してくださる人がいたらコメントください。
お話がしたい。

無限に書き続けられそうなのでこの辺でやめます。
少し落ち着いてきたので帰ります。
車の事故で死ぬのは周りに迷惑かけるし、親にも損害賠償で負担をかけるので安全運転で。

それでは、のだめでした。
いつか、プラスな人生を歩めますように。