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音生活

Spotifyを入れてから音楽生活が変わった。どこでも新旧洋邦オールジャンルの曲が聴けるというのはすごいことだなぁと思う。移動中、食事中、勉強中、入浴中でさえ聴ける。それもクラシックからプログレまで。
でも、便利な一方でちょっと息苦しいところもある。聞かなければならないという義務感に聞きたいという欲求が負けてしまうことがある。

スマホを持ってすらなかった小中学生時代は、貴重なお小遣いを握って、近所のTUTAYAまで自転車を飛ばし、わくわくしながらパソコンで転送してアルバム丸ごと歌詞を覚えるくらい聞いたものだったけれど。
いまや1000円足らずで何でも聴けてしまう。

たまにクラシック音楽でどうしてこんなに退屈(個人の意見)な曲を昔の人はコンサートで飽きずに聴けたのだろう、と思うことがある。もちろん、人間の感性の変化もあるだろうけれど、きっと当時の人は人が創った「音楽」というものに飢えていたんだろうなぁと思ったりする。
人が創りだした(音楽に限らず)音が今よりもずっと少なかった時代、音楽を求める気持ちはずっと強かったはず。乾いた土に水が染み込むように人々の心に音楽は浸透していったんだろう、とか思うと少し当時の人たちが羨ましい。

2年前体を(心も)壊したとき、今まで聴いていた音楽が聴けなくなった。ラジオとか、クラシックばかり聴くようになった。今でも疲れると、現代の音楽に心が追い付かなくなる。もっと音楽的感性が鋭い人だと、音楽であるもの全て受け付けなくなってしまうんじゃないかとも思う。今の質の良し悪しも古さも新しさも洋も邦もなにもかもごちゃまぜになって押しよせてくる音楽の洪水はたまに陸に上がって一息入れないと、気が付かないうちに溺れてしまう。

もちろんサブスクの恩恵は存分に受けていて、デビットボウイと金延幸子と宇多田ヒカルが共存するプレイリストの力を借りて月曜の朝通学したりしているし、クラシックの名盤だってSpotifyで聴けちゃうんだから本当にありがたい。でも、疲れを感じているのも事実なのだ。

聴きたい、と思えているうちはどれだけ聴いてもいいと思う。養分を吸う力があるうちは吸えるだけ吸い尽くした方がいい。だけど、たまには吸収器官を休めてやらないと、一つ一つから受け止められるものも少なくなってしまう気がするのだ。

たまに、音楽を止めてみようと思った。雨の音、自分の足音、車の走行音、さざなみ、衣擦れの音を聴いてみようと。一日、何も聞かない日を作ってみてもいいかもしれない。とても長い一日になりそうだけど、断食後の食事のように、翌朝初めて聞く音楽は耳から体中に回って全身を元気にしてくれそうだ。

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