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鎌倉街道 上道を走る 鎌倉~町田 後編

 鎌倉街道の上道を、鎌倉から町田まで走った記録の後編です。今回は、俣野から町田までを紹介します。

 前回は鎌倉近郊だったこともあり、鎌倉色が強いのはイメージ通りでしたが、鎌倉から遠く離れた瀬谷区あたりまで、鎌倉に関する史跡があるとは思っていませんでした。
 一番の発見は「サバ神社」。それが何なのかは是非記事を読んでいただければと思います。

 なお、参考とした文献は下記になります。
・荻窪圭 「鎌倉街道伝承を歩く」山川出版社
・芳賀善次郎 「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」さきたま出版会



俣野~町田 21.5㎞

 境川沿いを北上し、横浜市泉区、瀬谷区、町田市と進みます。細かいアップダウンはなく、緩やかな登りが続きます。

俣野~町田

 この辺りの地名である飯田を治めていた飯田家義は、源氏方についていたが、石橋山の戦いで敗れた頼朝を逃がし、後に富士川の戦いでも武勲を挙げたことにより、この地を安堵されて地頭となった。
 境川流域にはサバ神社が10社以上あり(表記は左馬、鯖、佐婆、佐波だったりするようだ)、官職が左馬頭(さまのかみ)だった源義朝(頼朝の父親)を祀った神社である。
 飯田家義の父親が義朝の郎党であったため、所領内に左馬神社が集中するのではないかとのこと。

下飯田町・左馬神社

 大きな長屋門の旧家、代々名主を勤めた美濃口家のお宅の前を通る。この家に生まれた江戸時代の俳人、美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)に関する案内看板があり、大磯の鴫立庵(しぎたつあん)を後見したとの記述があった。旧東海道を走ったとき、鴫立庵に寄ったことを思い出した。

下飯田・美濃口家付近

 鎌倉街道から飛ぶが、そのとき取った写真を載せる。鴫立庵は江戸時代から、今も続く俳諧道場である。国道1号線に面しているが、一段低くなった場所に、沢が流れ、タイムスリップしたような場所だった。

大磯・鴫立庵

 飯田神社も、もとは飯田家義が義朝を祀ったサバ神社の一社だそうだ。
 当時の坂東の武家から、源氏は武家の棟梁として崇められていたのだろう。源氏の嫡子ということだけで坂東武者が頼朝に従った背景がうかがい知れる。

上飯田・飯田神社

 いちょう団地を過ぎ、畑の脇を進む。

上飯田町付近

 橋戸という地名は、頼朝が富士の狩りに出かけるときに住民が橋を架けたことに由来するとのこと。
 この辺りで疲れが溜まってきて、相鉄線の瀬谷駅までにしようかと考え始めるが、とりあえず昼休憩を取ることにする。

瀬谷区・橋戸付近

 またまた左馬社。ここが一番きれいで、建物も新しかった。
 1日で7社のサバ神社に詣ることにより、疱瘡、麻疹(はしか)、百日咳などの悪病除けになるという信仰があり(「サバ参り」あるいは「相模七左馬」)、最近ではコロナ対策として注目されたそうだ。
 厚木街道沿いのコンビニでお昼を取ると、まだいけそうな気になったので歩いてでも町田まで行くことにする。

橋戸・左馬社

 三叉路の真ん中に立つ道祖神。

瀬谷・地神塔三叉路

 日枝神社境内に立つケヤキの巨木。かながわの名木100選にも選ばれている姿は、実物を見ると圧倒される。

瀬谷区本郷・日枝神社

 中屋敷付近の道沿いに立つ大きなケヤキの並木。これもなかなかの存在感であり、古道の雰囲気を味わえるが、住んでいる人は落ち葉で大変だろうな。

瀬谷区・中屋敷付近

 鎌倉街道の道筋では無いと思われるが、古道の雰囲気を残す道を通る。
 五貫目町という町名は、江戸時代初期に定められた年貢の石高に由来するとのこと。瀬谷区は町名も存在感が強い。

瀬谷区・五貫目町付近

 またしても歩行者の行く手を阻む246号にぶち当たる。歩道橋を見つけてなんとか渡る。

町田市・鶴間付近

 一部だが立派な雑木林が保存されている。
 改めてルートを確認すると、ここより西の杉山神社あたりに古道は通っていたと思われる。

町田市金森・峯山

 15時過ぎに町田市内にたどり着き、本日はここまでとする。
 復帰第一弾だったが、なんとか故障再発無く走りきることができた(半分ぐらい歩いたけど)。

町田市市街


 今回辿ったルートが鎌倉街道かどうかは諸説ありますが、古道であることには間違いないと思います。それも、今まで走った江戸期の古道よりも、もっと古道の雰囲気を残していると思いました。別の言い方をすると、開発から取り残されていると。その理由をぼんやり考えてみました。

 江戸期の街道は、江戸が東京に変わり、産業、政治、文化の中心地がそのまま移行したので、人やモノの動線が変わることなく、形として街道から幹線道路へと姿を変えた。東海道は国道1号線や鉄道に、矢倉沢往還は246号線など主要な幹線道路になった。
 一方、鎌倉街道は、鎌倉が政治の中心的な役割を終えるとともに、人の動線として使われなくなった。さらに、海運の要となる大きな港が鎌倉に築けなかったため、モノの動線としては発展しなかった。そのことにより、鎌倉時代以降、交通路としての開発が進まず、古道の姿がそのまま残ったのでは、と想像しました。
 ピント外れかもしれませんが、そんなことを考えるのも楽しい今日この頃です。

 町田に近づくにつれ、徐々に鎌倉街道の痕跡は薄くなった印象ですが、文献によると、その先、各所に鎌倉街道としての史跡、見所があるようですので、次回もこの先の鎌倉街道を辿りたいと思います。

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