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太宰治『皮膚と心』感想

太宰治は、とにかく短編が良い。とりわけ女性の告白体小説の手法で書かれた短編は秀逸な作品が多く、その手法で書かれた作品のみを集めた『女生徒』という短編集が刊行されているほどである。
主人公である女性たちは、女性としての共通点を持ちながらも、それぞれがまったくの別人だ。男性作家が作り上げる女性は、飽くまでも“母として”“恋人として”など、ある特定の役割や年齢に縛られたテンプレート通りのキャラクターがほとんどである。勿論、女性作家が書いた男性もまたテンプレート通りであろうこと、そのような容れ物に収まって、それらしい振る舞いを演じる──時に意識的に、時に無意識的に──女性が居るのも確かであることは否定しない。

では、いつも女性が容れ物に収まっているかというと、そうでは無い。有態な表現を借りれば“母(あるいは恋人、姉、妹……)である前に一人の人間”なのである。太宰はその、容れ物に収まる前の、最も原始的で本能的な女性の本質を暴き出している。したがって、彼の作品は“女性視点の小説”では無く“女性の告白体小説”なのである。

本論では、先に挙げた短編集『女生徒』の中から、容れ物から零れ落ちた主人公が、己とは何なのかについて考え続け、気づき続ける小説、『皮膚と心』について考察していきたい。

女は、ある日、いつもの通り銭湯で身体を洗っていると、左の乳房の下に小さな吹出物が出来ていることに気がつく。そっれは「真赤に熟れた苺」のようで、女は「今までの私じゃなくなる」感覚を覚えた。
女には、結婚したばかりの男が居た。彼は腕の良い図案工だったが、小学校を出たきりで学歴が無く、孤児である為に財産も無い。おまけに6年間連れ添った妻に捨てられており、身体は小さく、貧相だった。
一方の女はどうなのかというと、彼女の顔もおたふくで、それゆえになかなか縁談が成就せず、気づけば28歳、当時の結婚適齢期は疾うに過ぎており、父親を亡くしている為に金が無かった。

不仕合せ同士お似合いではないかと結婚したは良いものの、男は前妻とのことがトラウマになっているのか、いつもおどおどして、自分を卑下してばかり居る。それが女に伝染し、可愛らしく振る舞えず、男に冷たく接してしまう。それがまた男に伝わり、「ときどき、やぶから棒に、私の顔、また、着物の柄など、とても不器用にほめる」ことになる。
そのいたわりが女にはまた悲しく感じられ、つらい。どうしようもない負の連鎖。

女は男の優しさを知っており、自分が仕合せ者であるという自覚もあるが、それでも「ほんとうに、あの人の不要な卑下さえなかったら、そうして私を、乱暴に、怒鳴ったり、もみくちゃにして下さったなら、私も無邪気に歌をうたって、どんなにでもあの人に甘えることができる」と思わずにはいられない。
そして、「もっと強いものを求めるいまわしい不貞」や、青春を謳歌出来なかったことに対する後悔の念が身の内に眠っていた事実に気づく。気づいたことに、はっとする。醜い容貌の自分が青春だなんて、みっともない。身に余る仕合せ者であるにも拘わらず、こんなふうに贅沢を求めるものだから、吹出物に見舞われるのだ、と。女が密かに感じていた不満や公開だけで無く、それらに対する自罰的な意識の表象として吹出物があらわれるのだ。

女は吹出物の具合を見せる為に、男の前で着物を脱ぐ。男はそれをつくづく眺めるが、気持ち悪がるどころか彼女の容態を案じ、薬を買いに薬局へ行く。早速それを患部に塗布するも、吹出物は一向に治まらない。それどころかどんどん悪化してしまう。

女は、痛さ・くすぐったさ・痒さの中で、痒さが最も嫌なものだという。何故なら、痛さやくすぐったさには知覚の限度があり、極限に達せば、気絶することが出来るから。特に痛さは、簡単に死に繋がるので、「苦しさから、きれいにのがれる事ができる」。しかし、痒さは「波のうねりのよう」に続くばかりで、知覚に果てが無い。
この吹出物には一切痒さは無かったのだが、女は視覚的な痒さも嫌っていた。

牡蠣の貝殻。かぼちゃの皮。砂利道。虫食った歯。とさか。胡麻。絞り染。蛸の脚。茶殻。蝦。蜂の巣。苺。蟻。蓮の実。蝿。うろこ。みんな、きらい。ふり仮名も、きらい。小さな仮名は、虱みたい。

といった具合に、見ていると痒くなるような、小さなものの集合、ぶつぶつしたものたちが忌まわしきものとして列記される。その為、女は身体的にも視覚的にも痒さを伴う皮膚病にだけはなりたくないと以前から強く思い、肌をたいへん労わって生きてきた。

それがとうとう、全身に広がった。女は醜悪な姿を男に見られたくないと思ったが、男に優しく声を掛けられ、思わず泣き出してしまう。それを見た男は、「いままで聞いたことのないほど、強くきっぱり」した声で、医者に連れて行くと言う。女はこの姿で電車に乗るのは堪らなかったので、「電車は、いや」という「贅沢なわがまま」を結婚して初めて口にする。
到着した病院の待合室の様子は、ただただ陰鬱な描写が続く。そこに居る患者たちも不気味だ。女はそのさまを、マクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』に喩える。

不満や後悔は、視覚的痒さを伴った醜い吹出物として出現した。死ぬことの叶わない、波のように続く苦しみ。これは、二人の関係そのものだった。言いたいことも碌に言えず、互いに自信が無く、いつもどぎまぎしている。慕っているのに、他人行儀。もし男が怒鳴ってくれたなら、その痛みには限界があるのに、この痒さには限界が無い。
しかし、女が広がり続ける吹出物のつらさに号泣したことで、事態は微かに変化する。それは男の区長が「強くきっぱり」としたものになることからも伺える。

行き着いた先はどん底、地獄であった。死ぬことが叶わないと思っていた痒さだったが、号泣という形で知覚の限界を迎えた。陰惨な地獄の中でも、女は「一ばん重い皮膚病」を患っていた。
女は、手持ち無沙汰で立っている男に、散歩を勧める。

「ここは、きたない。あなたが、いらっしゃっちゃ、いけない」
(…)
「おめえも、一緒に出ないか?」
「いいえ、あたしは、いいの」私は、微笑んで、「あたしは、ここにいるのが、一ばん楽なの」

男は離婚歴があるが、それを一切感じさせないようにしてきた。いつも女を労わって、慈しみ、愛した。吹出物も出ず、この地獄が男にとって汚い場所であるのは、それらの行為が心からの純粋なもので、女との結婚に対する不満も後悔も無いゆえだろう。

しかし、女は待合室で考えながら、男の優しさを疑ってしまう。改めて自分が最初の結婚相手では無いという事実を強く実感し、前妻に対し強い嫉妬を覚える。
そして、嫉妬が如何に醜悪な感情であるかを思い知り、これを感じることもまたある種の地獄、どん底であると考える。不満、不貞、後悔、嫉妬──そんな醜怪な感情たちこそが地獄。純粋な男の行為を疑うような自分には、地獄こそ相応しい。

高いリアリズムが、女のこの不埒と浮遊を、しっかり抑えつけて、かしゃくなくあばいて呉れたら、私たち自身も、からだがきまって、どのくらい楽か知れないと思われるのですが、女のこの底知れぬ「悪魔」には、誰も触らず、見ないふりをして、それだから、いろんな悲劇が起るのです。

「高いリアリズム」とは、男(男性一般)のことだ。男は学歴こそ無いけれど、西洋の本に親しみ、音楽の趣味も良い。彼の心情についてはほとんど描写されておらず(あったとしても、主人公の女視点)、理知的な存在として描かれている。
反対に女は、──ここでは世間一般の“女性”へと意味が広げられており──「一刻一刻の美しさの完成が全て」であると述べる。ゆえに、女性は綺麗な柄の着物を愛するのだと。

女性たちは明日のことなど考えておらず、今その瞬間の美に生きているので、綺麗な着物を愛する、という明快なロジックを通し、「不埒と浮遊」の内容を浮き彫りにする。着物は身体を覆うもの、つまり醜い吹出物=夫に対する不貞や秘密を隠すものである。これを暴き出してしまえばいいのに、男は吹出物=「底知れぬ『悪魔』」に触れようとしない。
先述の通り、男はいつもどぎまぎして、女の醜い吹出物に眉一つ顰めなかった。それは男の優しさによるものではあるが、かくて二人は互いに自身の胸の内を明かせぬまま暮らしてきたのだ。そして、女が地獄に堕ちるという「悲劇」が起こってしまった。

女は、待合室で嫉妬に狂う心を鎮める為に、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読む。登場人物であるエンマに吹出物があったら、ロドルフの誘惑を拒んだだろう、という妄想に耽る。吹出物なぞはほんの些細なものであるが、「一瞬間一瞬間の、せめてもの美しさのよろこびだけで生きている」女性にとっては、「ロマンスを歪曲させる」には十分な要因なのである。
やって来るかも分からない明日のことを心配するよりも、今を美しく生きること、それが何よりも肝要だ。

女が男に対して「プロステチウト」と呟きかける。プロステチウト(prostitute)は「娼婦」を意味する語だ。女性が自然の流れに従って堕落した結果なるもの、それが娼婦であると女は考える。
娼婦──肉体だけを生業にして生きる女性。肉体は皮膚に包まれている。皮膚病にならぬように皮膚を労わってきた女は、いつしか皮膚感覚や感触を鋭く、高尚なものへ進化させた。かくて皮膚を中心に生きていることを自覚した時、女は自分が娼婦とまったく異ならないことに気づく。

始め、不満・不貞・後悔およびそれらに対する自責の念から発現した吹出物は、あらゆる要因を伴って増殖した。最終的に、女は自己愛や自尊心といったものが自己の内に存在することに気づき、今まで自信が無いふうを装っていた己を自嘲する。

この最後の気づきこそが、太宰の書く「女性の告白体小説」のエッセンスである。
たとえば『ヴィヨンの妻』では、大谷はまったく更生したように見えない。夫婦は貧しいままだ。しかし、妻であるさきはそんなことを気に病む素振りも無く、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言う。この強かさである。
女は自分の“女性らしさ”(明日なんてどうでもいいと思う心)に気づいた時、同時に女性が潜在的に持っている強かさにも気づいた。この強かさには、「高いリアリズム」たる男性の持つそれのような根拠も理由も無い。しかしそれゆえ、他の根拠や理由によって覆されることも無い。皮膚から生まれる強さなのだ。

そして、女の診察が始まる。女は男や医者、看護婦の前で着物を脱ぎ棄て、石榴のようになった肉体を晒す──さながら娼婦のように。「単純な、ものなのですか?」という男の問いに対し、医者はにべもなく「そうですとも」と答える。

人間味の無い存在として描かれた医者は、地獄の門番であり、女を開放する装置だ。女は吹出物について様々な思いを巡らせてきた。しかし、その原因も治療法もごく単純なものだった。
男に対し明確な意思表示をしない日々は、やがて己に対しても虚偽や隠蔽を行うようになっていた。本当は不満があるのに自分は仕合せ者だと言い聞かせる。本当は自分の皮膚をこよなく愛していたのにすべてに自信が無いように振る舞う。
自己の持つ醜さを自覚し、肯定する。それらの一切を愛する男の前に晒し出す。

全身吹出物だらけの女は醜いだろうか。今を美しく生きていないだろうか。その答えは明瞭で、女は病院という地獄から脱した時、すでに手の吹出物は治ってしまっている。


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