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短編小説『ソルシコスの夜』

仕事を終え、いつものように神保町で降り喫茶店Mに入る。ここはいつも適度に人が居て、適度に話し声が聞こえ、適度に暗い。焼酎をコーヒーで割った酒を飲みながら煙草に火を点け、本を開き、一番新しいセックスのことを思い出していた。文字の一つ一つが過去を刺激するように出来ていて、言いかけてはやめたいくつもの言葉が、浮かんでは弾けて消えていくのが見えた。もしかしたら有効かも知れなかった言葉も、その時の私は言いかけてやめた。酒が不味くなるのが嫌だったから。
ページだと思い捲っていたのは闇のような色の暗幕で、次の話が読みたくて潜っていくうちに、乾いた石で出来た神殿が眼前に現れた。
もう一枚捲ると大広間に辿り着き、遠くで燃えるたった一つの小さな炎が、中央で密やかに繰り広げられる残酷な情景を仄かに照らし出していた。月とココナッツと白桃の香り。未だ嘗て、こんなにも淫猥な事実が存在する事を知らなかった。今まさに目の前で、私の愛する少女が巨大な象に犯されていた。と言っても、彼女はいかにも気持ち良さそうに、惜しげも無く悦楽にまみれた叫びを漏らし、──暗くてよく見えないが──年齢にそぐわぬ下品で美しい表情を浮かべているのだろうと容易に想像出来た。私には一度も見せてくれたことが無い、そしてこれからも一生見せてはくれないであろう表情を。
少しずつ近づいていくと、象だと思っていたのはガネーシャであることが判明した。そしてその傍らに、少女の恋人である青年が立っていた。しかし私たちは、“二人で”異教の神に犯される恋人を眺めていたのでは無い。まず少女とガネーシャが居て、それを見つめる青年が居り──そしてそれらすべてを見下ろす私が居た。私はいつでもその場からあぶれた哀れな亡霊だった。あらゆる出来事は自分以外の者たちの手で遂行された。
ガネーシャの目は虚ろだった。長い鼻が腰の動きに合わせて揺れ、時折小さくきめ細やかな少女の肌に触れた。右側だけ欠けた乳白色の牙に汗が伝った。少女は快感が絶頂に差し掛かると、無言で腰を振るガネーシャを力づくで突き飛ばした。ガネーシャが後ろによろめいた瞬間、それはただの髭面の中年男の姿に変わった。少女は狂った獣のように、そばに佇む青年に飛び掛かり、彼に自らを挿入すると、たった一人きりで痙攣しながら絶頂に達した。彼女の快楽と痴態は、他の女たちのそれと何一つ変わらないにも拘らず、彼女に与えられた、この世で最も優れた形式の一つであるように思えてならなかった。

私は嫉妬と興奮で痺れる体を引き摺るようにして、誰かに抱き締めてもらおうと広間を出た。石畳の長い廊下を歩く。誰でもいいから女の体を抱き締めたかった。
廊下の左手に現れた扉を開くと、そこは狭く安っぽいソープランドの一室で、好みでは無いが綺麗な顔をした女が、窶れ切った私の姿を見て笑った。「とても疲れている」と言うと、女は笑ったまま私の腰に腕を回し、グラスに入った水を飲ませてくれた。ベッドに体を投げると、黴と小便と汗の匂いがした。グラスを床に置き、続いてゆっくり女がベッドに入ってくる。
どうしたい?何がしたい?──そう訊きながら既に私の服を脱がせかけていたが、先程まであった稲妻のような興奮は、丸ごと疲労感に形を変えてしまっていた。女の動きを制止し、柔らかく温かい体を抱き締めた。バニラの香りがする大きな乳房が二つの体の間で潰れた。
たった二杯の酒と、たった一人の女を買ったばかりに全財産が消えてしまった。酒に酔い、階段から落ちて死んだ男。私はその男の両眼を持っている。素晴らしい景色なんて何も見せてくれない、酩酊と紫煙で霞みきった義眼。開けていようが閉じていようが変わらない。
女をより強く抱き締めると、応えるように抱き締め返される。私はこの場に適しているだろうか。あなたにとってこれは、私の姿をしているだろうか。プラスチックのタイマーが鳴るまでの永遠の中で、あなたの体を知っているのは私だけのはずだ。そうであれば、今だけは哀れな亡霊では無くなる。
何がしたい?──女は繰り返す。その声は、実の父親と性交する、たった一人のわが恋人──あの可愛くて仕方ない少女の声にとてもよく似ていた。私はいつものように、言うべき言葉を言いかけてやめた。少しでも長くこの時間を続ける為に。

無職を救って下さい。