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小児性愛に関するメモ 斉藤章佳『「小児性愛」という病──それは、愛ではない』に照らして

※2022年5月執筆。

私個人にとって、数ある性犯罪の中でも、小児性暴力対する関心は極めて大きなウェイトを占めている。虐待含め、小児・幼児を相手にした犯罪にまつわるニュースは聞いているこっちが死にたくなるし、どれも未遂で終わったとはいえ、自分も幼少期に性被害を受けそうになった事が何度かある。
先月、丸山ゴンザレス氏の裏社会ジャーニーというYouTubeチャンネルに於いて、国民民主党の平塚正幸氏が14歳の少女を妊娠・出産させたというショッキングな事件が取り上げられた。当該動画はこちら。

動画内でも言及されているが、一応事件の概要を簡単に説明する。国民民主党の平塚正幸氏が、支援者との交流会の中で、とある議員の娘と親しくなり、LINEを交換。その後、二人は“真剣交際”をするようになった。
別件(内容失念。税金関係?)で平塚氏宅にガサ入れが入った際、最近子供が産まれていたことが発覚。そして、その相手が当時14歳の少女だった。以上の衝撃的な内容が、週刊誌FLASHにリークされたという次第である。

普段、ジャーナリストや作家という立場から多くの犯罪者・裏社会の住人たちにインタビューをする丸山ゴンザレス氏と草下シンヤ氏が、あからさまに容疑者を否定する姿というのは、記憶にある限りほとんど無い。それらしい物言いをする際でも、慎重な態度で以て、必ず「言い方悪いですけど、」「語弊があるかも知れませんけど、」と前置きし、飽くまでもこれは“記録”である、という態度を都度表明している印象がある。
その二人が、本件については「気持ち悪い」と端的に嫌悪感を露わにしたのは珍しく、古今東西津々浦々の犯罪・裏社会と関わってきた彼らにとっても、許し難い事件である事が伝わってくる。

FLASH発売後に平塚氏が撮影した、ニコニコ動画の映像を観てみた。曰く、本件は、WHO親善大使で日本医師会を務めている人物に、被害者少女の父親が事件内容を密告した事が発端らしい。普通に考えれば、父親が平塚氏の行為に激怒したのだと理解するだろう。国会議員として国民を代表する立場であり、それなりに知名度もあるにも拘らず(私は知らなかったが…)、まだ幼い自分の娘を妊娠させ、その上、大した罪にも問われずのうのうと生きているなんて許せない、という強い怒りの感情に由来するものである事は、一目瞭然である。
密告先としてWHO親善大使を選んだのは、元々反マスク・反ワクチン運動をしている平塚氏を快く思っていなかったから、という理由はあったかも知れない。しかし、動画内ではひたすら「コロナワクチンを猛毒だと世に知らしめている私を許せないから逆恨みしたのだ!」という支離滅裂で滅茶苦茶な主張を、18分にも亘り続けており愕然とした。

他にも、週刊誌の内容に言及しているらしい1〜3時間の動画が5月9日時点で12本も(少なくともニコニコ動画内で)あるが、さすがに観るの面倒臭い……どうせほぼ言い訳と、リークした人への逆ギレに過ぎないだろうし。14歳と真剣交際と言っている時点でだいぶアレだが、父親が本件に関わっていると知りながらよくこんな動画を公開出来るなと思う。
あとこれはまあどうでもいいけど、自分の子供の事を「ベビー」って呼んでるのかなりキモいな。プライベートならまだしも、刑事事件に関する動画で「ベビー」て。

閑話休題。本件を扱った動画により、散々偉そうにしておきながら恥ずかしい話だが、日本国内の性交同意年齢が13歳と非常に低年齢である事実を知った。12歳以下であれば、問答無用で強制性交が適用されるらしいが、13歳以上は暴力性が認められない限り適用された前例はほとんど無く、本件も青少年愛護法と条例違反程度の罪にしか問われなかったらしい(草下シンヤ氏曰く、どちらも罰金刑で済むような罪)。
特に本件では、被告人である平塚氏が「自分たちの関係は真剣交際だった」と主張しているが為に、強制性交として立件するのはかなり難しいのだそう。「大した罪に問われない」と書いたのはこの意味である。
動画内で、「真剣交際って言われちゃうとね…プライベートな問題になっちゃうからね…」といったやり取りがあったが、真剣だったら尚の事、身体的にまだ発達しきっていない子どもに、妊娠・出産なんていう心身共に多大な負担が掛かるような行為はしないはずである。

そういえば、少し前に「50歳の自分が、中学生と真剣交際の末に性交したら逮捕されるのはおかしい!」と相当気持ち悪い発言をして辞職した、相当気持ち悪い議員が居た。あの流れで、性交同意年齢の引き上げに繋がらなかったのは残念極まりない事だ。引き上げたところで何の問題も無いと思うが、日本は本当にこういうところが終わっている。現在の性交同意年齢が決まったのは明治時代の話で、それ以来見直されていないそうだ。おかしいだろ。

ところで、日本は終わっていると書いたが、世界の性交同意年齢についても、韓国も13歳、ドイツ・台湾が14歳、フランス・スウェーデンが15歳、カナダ・イギリス・フィンランドが16歳だそうで、先進国とは…と頭を抱えたくなった。
子どもを産み育てるという判断能力や責任能力が、13〜16歳の人間にあるとは思えない。成人年齢と等しくするのが妥当であると思う。

そんなこんなで大変な衝撃を受け、平塚氏の名前でツイート検索をしたのだが、予想外に本件を話題にしている者は少なかった。肯定的なツイートよりは、(本件以外に関しても)アンチツイートのほうが多かったのが分かったくらいだ。
そしてたまたま見かけたツイートの中に、斉藤章佳氏という精神科医の著書『「小児性愛」という病──それは、愛ではない』に触れている方が居り、折角なので読んでみた。

斉藤氏は、本邦でも数少ない、ペドフィリア(小児性愛者)専門の治療プログラムを実施しているクリニックに勤務している。
本著には、加害者の残した生々しい手記やコメントも載っており、読み進めるのに尋常ならざる苦痛と不快感が伴うのを禁じ得ない。斉藤氏がしつこいくらい「許されることでは無い」「一番苦しいのは加害者である」と繰り返し、厳しい批判をつぶさに書き連ねてくれている(俗な言葉を使えば、“完全論破”してくれている)のがせめてもの救いである。

“完全論破”と書いたが、私の幼少期──ほんの20数年前までは、LGBTなんて言葉は無かったし、祖母に「女の子は勉強なんてしなくていい」と言われた事もあったし、平成初期のテレビ番組では、まだ女性の裸体が平気で映され、男性はスカートを穿くのも化粧をするのも駄目で、発達障害なんて聞いた事すら無く、ラッパーは全員語尾にYOを付けているとされ、義務教育中の者がインターネットに接続する際は、基本的にROMっていないとIPアドレスを抜かれた。
これだけ世の中が変化していれば当然だが、あの頃の論破では、今の人間を論破出来ない事態がかなりある。自分はこれまで、普遍性や永遠なるものなどばかり考えて生きてきたような気がするが、精神医学や法学といった、「常に変化し続けるもの」と対峙するというのは、文字通り気が狂うような行為なのでは無いかと思う。

特に意識せず「義務教育中の者がインターネットに接続する際は、基本的にROMっていないとIPアドレスを抜かれた」と書いたが、インターネット上での性犯罪に対する危機意識は高まっているとはいえ、それはインターネットが普及して誰でも簡単に利用出来るようになったからであって、それと同時に犯罪の手段も、巻き込まれる機会も、増加し、多様化しているのは明らかである。今回の事件も、LINEの交換がきっかけだった。改めて、14歳は子どもだといわざるを得ない。
ここで私が子どもだというのは、大人より劣るとか、人権を持っていないとかいう意味では勿論無い。むしろ一人の人間として見ているからこそ、大人であるわれわれが守らなくてはいけないと思うのだ。

斉藤氏による「厳しい批判」の一つに、「LGBTにペドフィリアを入れろ」という意見に対するものがあり、目下何一つ反論の余地が無い完璧な内容だったので、以下に引用する。もう、これ教科書に載せたほうがいいんじゃないかと思う。

指向(どの性別の人間を恋愛、性愛の対象とするか。恋愛・性愛の対象がない場合も含む)」と「嗜好(何に対して性的に興奮するか)」の区別がついておらず、同性愛や両性愛も「性的欲求の問題」だと理解しているのだと思われます。子どもと性行為をしたいというのは、いうまでもなく“嗜好”の問題です。
この背景には、「男性の性的欲求は誰かに受け止めてもらうべきもの」という発想があるように思います。だからこそ「大人の女性とセックスができないから、せめて子ども」という認知の歪みを持つ者も出てきます。女性も子どもも、男性の性欲を受け止めるために存在しているわけではありません。それだけでなく、子どもという絶対的に弱い存在を使って性欲や支配欲を満たそうという考えには大きな歪みが見えます。
自身の嗜好や欲求でしんどい、生きづらい思いをしていたとしても、それは自分自身でなんとかすべきであり、そのために子どもを含む他者を“使って”はいけないのです。

ここだけ引用すると「自分自身でなんとかすべき」という部分で要らぬ誤解を招くかも知れない。先述の通り著者は医者なので、「なんとかする」方法は別の章で取り上げている。
例えば、小児性愛障害を専門で取り扱う病院で治療しましょう。身近な人に相談出来るのが一番だが、ハードルが高いので、例えば既に罪を犯してしまったのならば、出所後も強制的に長期間の治療教育に繋がっていくような制度を作るべきである。という提案をきちんとしている。

ちなみに本著によれば、メーガン法(犯罪者の個人情報を、誰でも調べられるようにするもの)はあまり効果が無く、対して、加害者にGPSを付けるのはやや効果があるらしい。
日本は、加害者の個人情報は報道されず、被害者の情報ばかり公開されるような人権意識が意味不明過ぎる国なので、GPSなんて夢のまた夢だろう。韓国ではGPSを取り入れているが、これには加害者の就労支援を行うという兼ね合いもあるそうだ。

年齢や内容を問わず、性暴力事件が起こると、「性犯罪者は去勢しろ」という意見が必ずといっていい程持ち上がる。正直なところ、私もそう思った経験が幾度と無くある。しかし、それこそ非現実的だ。
但し、発想としては似ているものがある。抗不安薬や抗うつ薬の副作用である勃起不全・性欲減退を利用した薬物療法がそれである。アメリカでは国家的に承認されている治療法だが、日本ではまたしても、加害者の生理的欲求を損なうのは人権侵害だなんだと反対する声が大きく、積極的に取り入れられていない。

余談だが、わたしのオールタイムベスト(初めてこの言葉使った)に含まれる小説の一つにウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』がある。言わずもがな、「ロリコン」の語源となった文学作品である。小児性暴力は言語道断だが、若島正氏の美しい翻訳を含め、今なお読まれるべき大傑作である。
『「小児性愛」という〜』を通して感じたのが、ハンバート・ハンバートの心情や言動の描写が、現代の実在するペドフィリアのそれとかなり合致しているという点である。斉藤氏の勤務するクリニックに通う者たちの手記の内容は言わずもがな、著者が指摘する彼らの「認知の歪み」は、ハンバートの思考と似ている。小説内で明記されていないが、ロリータのことを「ニンフェット」と呼び崇拝に近い感情を示したハンバートも、結局は彼女のことを強姦している。

これまで、そして今回も、私が小児性犯罪について考える時、いつも引っ掛かるのが漫画やアニメ等の児童ポルノの存在である。生身の児童が登場するポルノ作品は問答無用でこの世から消え去るべきだが、漫画やアニメ等は「これらがあるから現実で加害せずに済んでいる」という主張も、そうなのかも知れないような気がする。何より、二次元の作品には被害者にあたる児童が存在しない。
ところが、本書ではずばり「児童ポルノが加害の抑止に繋がっているというデータは無い」という事実、及びクリニックに通う前科者たちが満場一致で「児童ポルノは小児性加害の強力で直接的な原因となりうる」と述べている件、また、小児性加害者のほとんどが、犯行以前に児童ポルノに接していた過去があるという実態が明記されている。

他の性犯罪(成人女性に対する強姦や盗撮、痴漢等)の場合だと、犯行以前に、事件内容と直接関連するジャンルのポルノ作品と接していた確率は低いらしい(それはそれで、結局AVも風俗も必要悪では無いではないかという話になるが)。
仮に自分が、これまで小児性暴力に走る事無く、仮に死ぬまでそうあれたとしても、児童ポルノが存在し、それを他者が知る事で「子どもに性的な眼差しを向けてもいい」といった誤った認識を与えるきっかけとなってしまうかも知れないという事だ。

犯罪抑止になる可能性を措くとしても、二次元作品であっても嫌悪感しか湧かない自分にとっては、この情報は目から鱗だった。
小児性愛とは関係無いが、自分にも思い当たる節がある。中学1年生の頃、仲が良かった友人に「ボーイズ・ラブというものがこの世に存在するらしい」という話を何気なくしたところ、友人は想像を絶する熱量で以てBLの世界にのめり込んでいった。腐女子では無い者からしたら、キャラクター同士の熱い友情だったり、上司と部下の強い信頼関係にしか見えないものが、彼女らの視線を通すと立派な(?)BLなのである。
こういった性的なコンテンツ以外でも、ある嗜好や趣味に辿り着くには他者(インターネットや書籍も含む)の介在が多分に存在するものである。何故なら、欲望とは他者の欲望なのだから。

とあるペドフィリア御用達の成人向け漫画雑誌を思い出す。といっても、表紙しか知らない。小児性愛に厭悪する私ですら知っているくらい、その表紙こそ有名なのである。
表紙に描かれる少女たちは、必ずしも毎回露出度の高い服を着ているわけでも、あからさまに扇情的なポージングや表情をしているわけでも無い。中にはそういった手合いもあるが、何気無い日常の一コマを切り取った写実的なイラストに、切なさや儚さのある惹句が添えられているものが多い印象だ。
だからどんなに中身が猥褻でえげつなかろうと、表紙をSNSに載せる分には凍結や削除の対象にはならず、その上何となく“いい感じ”を受けさえする。かくいう私も、児童ポルノ雑誌の表紙という事実を抜きにすれば、『となりのトトロ』的な眩さやノスタルジーを感じる(まあ、奇しくも宮◯駿は日本を代表するロリコンなわけだが…)。

これまで自分がペドフィリアであるという自覚を持っていなかった、あるいは、そもそも子どもを性的な対象とした事が無かったという人たちの“パンドラの匣”を開けてしまうとしたら、何気ない気持ちであっても、あるいは冗談であっても、SNSに「この表紙好き」などと投稿する気にはなれない。
そう考えると、ご当地キャラクターや企業のイメージキャラクターに小中学生くらいにしか見えない女の子の萌え系(死語か?)イラストが採用され、それに「ツイフェミ」という蔑称で呼ばれる人たちがキレているのも、あながち間違いではないのかも知れない。無論、行き過ぎたミサンドリーには反吐が出るのはいうまでもない。これは自戒も込めて。

とはいえ、呪わしいことに、この世からすべての児童ポルノが根絶され、今後一切製造される事が無くなったからといって、小児性暴力も同時に消えて無くなるという事は無い。ここまで極端で、実現不可能であろう事を遂げても尚、なのだ。小児性愛は、子どもの姿態や性器に対する嗜好の他にも、(先にも引用したように)「自分の性欲を受け止められたい」「誰かを支配したい」という「認知の歪み」と不可分な関係にある。
男性の多くがこの認知と戦ったり、諦めたりしているのだと予想されるが、それが「受け止められるべき」「自分によって誰かが支配されるべき」にまで大きく歪んだ結果、最も弱い子どもたちへの「愛」、つまり性加害行為へと繋がっていくのだろう。小児性暴力事件に於いて、しばしばヘテロ(になるのか分からないけど)男性が男児を襲う例がある事実からもそう思う。

こういった、ヘテロ男性による「認知の歪み」の適用される幅を拡大すると、フェミニズムというのは、女性だけが戦う事によって達成されるのではなく、圧倒的に男性が行うもの、それも自分自身との間にある戦いなのだと改めて思った。学生の頃、教授が(英米文学科の講義で、フェミニズムの講義では無かったように記憶している)「フェミニズムは“弱者”にとっての学問だと思います」というような事を言っていたのを、今でも印象深く覚えている。私にとってのフェミニズムも、そのように規定されている。
それにつけても、皮肉では無く、男性に生まれたというたったそれだけで、物心ついた頃から他者を加害するよう教え込まれ続ける人生というのは、途轍も無い苦痛に満ちているのだろう。誰しも自ら歪ませたくて、認知を歪ませているのでは無い。

本著を通して答え合わせになった事、新たに知った事は多くあり、散々述べてきたように「その通りです」の連続なのだが、一つだけ、漫画やアニメ等を含む児童ポルノ作品は「表現の自由」に該当しない、児童ポルノは「他者を攻撃し、貶め、尊厳を奪う」から「表現」ではなく「暴力」であるという主張には、やはりしこりが残る。ここでは、2016年に制定されたヘイトスピーチ解消法が引き合いに出されている。
「表現」としてのヘイトスピーチに出会った事が私には無いが、上述の宮◯駿然り(彼の作品はポルノでは無いけれど)、例えば自分が直近で読んだ漫画として思い出されるのが、山本直樹の『田舎』という作品である。確か、受験勉強に専念するべく田舎にある親戚の家を訪れた浪人生が、小学生くらいの従妹とセックスしまくるという話。
今、内容を確認しようと検索してみたら「東京都で不健全図書に認定、Amazonでも規約違反として販売停止」されたそうで、まあ要するに児童ポルノなのだが(その上近親相姦か)、この作品にポルノ以上/以外の何かを一つも感じないと断言するのは難しい。少なくとも私は、子どもを性的な眼差しで見ようとは思わないものの、あどけなさ、純潔さ、無垢さ、穢れ無さ、神聖さ、といった記号としての少女という見方や、モチーフとしての少年少女の美しさは理解出来る。

高校生の頃、自分が「少女」で無くなっていく過程を強く意識していたのを覚えている。相対性理論(バンド)の『地獄先生』の歌詞「わたし まだ女子高生でいたいよ」という部分に深く共感したものである。女の自分でさえ、少女時代が特別な時間であった事、そしてもう二度とそれは訪れない事を感じていた。一度も「少女」では無かった男性からしたら、異次元の生き物──それこそ神々しい何かだという錯覚に陥ったとしても、そこまで突飛では無い。

繰り返しになるが、児童を対象にした性犯罪には断固として反対する。性交同意年齢の引き上げ、厳罰化もぜひ行って欲しい。
子どもは、あらゆる側面に於いて力が無いのだ。抵抗する力も、自分がされているのが何であるのかを考える能力も、妊娠・出産する体力も、子供を育てる為の経済力も、何もかも。その子の事を真剣に愛しているなら、その子が大人になるまで待つ以外の選択肢は無い。あるいは、ペドフィリアであるという自覚があるなら、大袈裟だとか自分は犯罪なんてしないだとか楽観視せず、悲劇が起こってしまう前に、どうか治療に専念して欲しい。

これを書いている私も、確かにかつては「少女」だったが、その時も、その前も、その後も、ずっとただ一人の人間である。欲望をぶつけた対象は、神聖な生き物でも、支配されるべき下等な物体でも無く、同等の命を持つ人間である。また、子どもが死んで大人に生まれ変わるというのでも無く、幼い頃に負った傷は一生消える事が無い。
性犯罪だけで無く、家庭、幼稚園、学校等での虐待についても見直しを図って欲しい。子どもが子どもであるという理由だけで、苦しい思いを強いられる事が無くなるのを強く願うばかりである。

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