短編小説『永遠的でない愛』
先週から、体調を崩し会社を休んでいる。二日間高熱に魘され、一昨日から微熱が続いているという状態。夏風邪というのは、これまで罹った事が無かった。病院に行き医者に何やら話をされたが、最近、自宅の近くでやたらに蠅の飛んでいる一帯があるのを思い出し、ほとんど聞いていなかった。
体が熱いのか、気温が高いのかがもはや分からない。吸ってから吐く。そんなんだ。退屈が終わったと思ったら、また次の退屈がやって来る。読書でもして気を紛らわせたいが、やはり蠅の存在が気に掛かる。
咳で目が覚めるせいで長時間眠っていられず、断続的に寝たり起きたりを繰り返している。それが原因なのだろう、脳の中で意識の内と外が入り乱れ、寝ている時間より夢を見ている時間のほうが長くなってしまった。──風呂から上がり、居間に戻る。帰宅したばかりらしい妹が、ソファの上で仰向けに眠っている。寝息すらほとんど立てず、静かに、ゆっくりと寝返りを打つ。重心が移るに従い、ソファからさらさらした純粋な水が浸み出す。床が濡れ、絨毯まで水浸しになる。妹がうつ伏せになる。巨大なサンショウウオだ、と思った。妹は巨大なサンショウウオになっていた。わたしは寝巻き姿のまま、髪の毛をタオルで拭きつつ、一部始終を眺めていた。サンショウウオには硬そうな背びれが無かったので、彼女の背中に跨り、そして覆い被さった。冷たくて気持ちが良かった。太腿の間に体を挟む込み、少し力を入れると、ぬるぬるした肌が微かに痙攣した。そのまま眠った。背びれになる夢を見た。
階下から、自分の名前を呼ばれたような気がして起床した。まだ体調は思わしくない。喉が締まるような感覚の後、何度も咳が出る。鼻をかむ。全身が重たい。まるで時間が後からついてくるようだと思いながら、ゆっくり階段を降りる。階段の途中にある窓から、猫の鳴く声が聞こえた。
食卓には、見たことも無い生物が座っていた。強いて言えば、牛と、海老と、鶏と、人間に似ていた。彼はわたしの存在には目もくれずに、土の盛られた皿にスプーンをつっこんで口に運んでいた。彼の向かいには、同様に土の盛られた皿と、錫のスプーンが置いてあった。これはわたしの分だと理解し、黙然と着席した。
土の中をスプーンで探ると、中からいくつかのチューリップの球根が出て来た。わたしが祖母から貰ったものである。その日のうちに、白い陶器の鉢植えに植えたはずだった。われわれは言葉も視線も交わすこと無く、土とチューリップの球根とを口に運び続けた。──言葉こそ交わさなかったが、彼は時々、甲高い奇声を発した。そのたびに、果物の腐ったような甘ったるい悪臭で室内が満たされ、粘度のある唾液が、清潔に磨き上げられた食卓の上に飛散した。
わたしは強い疲労感を覚え、球根を一つだけ残し自室へと戻った。扉を閉めた途端、空咳が止まらなくなった。少し寝もうとしたが、ベッドの上では、幾つもの青っぽい透明の液体の粒が不規則に波打っており、とてもでは無いが寝転がれる気にはなれない。よく見ると、液体の中には子ねずみ程度の大きさの蠅が二匹、その場から逃れ出ようと蠢き、のたうち回っている。無機質な複眼が銀色に鈍く光る。しばらくその様子を眺めていると、背中を撫でる一本の指の存在を感じた。──ようやく空咳が止まった。温度の無い一本の指に愛撫され、──懐かしさのあまり思わず振り返ったが、指の先に繋がる肉体は見つからなかった。いつしかわたしは、咲かなかったチューリップのことを考えていた。
無職を救って下さい。