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怒りの日(ディエスイレ)...ショスタコーヴィッチの場合


  グレゴリオ聖歌の怒りの日(ディエス・イレ)のメロディは「人口に膾炙」しているというか、映画やドラマ、バラエティのBGMや効果音としてもよく使われているので知らず知らずのうちに耳にしているはず。ファ-ミ-ファ-レ-ミ-ド-レ-レ…の原型全体を、ベルリオーズの有名な「幻想交響曲」第5楽章で容易に聴くことができますが、この曲での引用が後世に決定的な影響を与えたと言えそうです。魔女、悪魔や魑魅魍魎、そして死のイメージを、さらには唐突に長調に転じてどんちゃん騒ぎで集結するパロディ性までもベルリオーズは先駆けて表現しました。それを踏まえて、リストやサン=サーンスがそれぞれの「死の舞踏」、ムソルグスキーの「禿山の一夜」で継承していきます。
 マーラーの「交響曲第二番・復活」の長大な第5楽章の中間部で活躍するファンファーレ的旋律(のちに変形され弦楽器ユニゾンで奏されるメロディは後述のショスタコーヴィッチのモットーと似る!)の冒頭4音をディエスイレの引用との説明もよく目にしますが、4音だけで聴覚上はあまりピンとはこない。この曲には最後の審判からの復活というストーリーがあると知った上で納得はしますが。
 ムソルグスキーがきっかけなのか、その後はなぜだかロシアの作曲家達に目立って受け継がれた感があります。筆頭にあげるべきはラフマニノフでしょう。彼のオーケストラ作品はディエスイレの引用というより、曲を構成する中核になるモチーフである事が多くて三曲の交響曲、「交響的舞曲」や「合唱交響曲・鐘」、「パガニーニの主題による狂詩曲」など数知れず、初めて聴く彼の作品であ、またやってると苦笑してしまいます。冒頭4音だけが多いんですが、なんせあまりに執拗な繰り返しなのでね。たぶん一番メジャーな「ヴォカリーズ」のメロディの冒頭4音もディエスイレですよ。


 グラズノフのオーケストラ組曲「中世より」は珍しい曲ですが、私は指揮者ネーメ・ヤルヴィが好きでその膨大な録音を追っていた頃に出会い聴くことができました。死の舞踏と題される楽章で、リスト〜サン=サーンスにダイレクトに連なる、グラズノフにとってはディエスイレってのは恐らく知識人の常識的素養、嗜みのようなものだったのでは。ラフマニノフの切迫した感じは乏しく、どうも上手に出来過ぎてるので。
 さらに時代をくだるとグラズノフの弟子にあたるショスタコーヴィッチ、その交響曲「第四番」「第十四番」をはじめ様々な作品に頻繁に聴かれる諸井誠さんがモットー主題と呼んだレドレシレラ、あるいはシ♭ラシ♭ソシ♭レ、前4音は確かにディエスイレですけどね、聴覚上はピンときません。ただショスタコーヴィッチの曲はもはや意図的なのか無意識なのかわからないほどに他の有名曲から様々な引用があってその織物のごとき音楽なので、ディエスイレだけを取り上げる意味がない気すら。
 ウィリアム・テルに始まる全編引用に溢れる交響曲第15番はその点むしろわかりやすいくらいですね。私にとって強烈なのは第五番、中学生の頃誰でも一度は魅了されるかもしれん第四楽章の第一主題、指摘されれば確かにビゼーのカルメン、ハバネラで合唱が入れる合いの手そのものだし、同じくハバネラで合唱がメロディを引き受けカルメンが’l’amour’と歌い上げるオブリガードが第一楽章の第二主題になっているなんて言われるまで気づきませんでした。早くから第二楽章でのカルメンの引用を指摘していたのは諸井誠さんの慧眼でしたね。交響曲第九番第4楽章のファゴットの呟きはベートーヴェン第九第4楽章の低弦のレシタティーヴォの引用とされてます。第十番第三楽章中間部の突然のホルンの咆哮は隠されたイニシャルの音名であると同時にマーラー「大地の歌」冒頭の引用でもあります。
 https://youtu.be/tPA2Cv1HiKs?si=LR0XRyQNjkdAGeAK

さてやっと本稿の本題に入ります。ショスタコーヴィッチの歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、第三幕第1場から2場への間奏曲です。酔っ払いが隠された遺体を発見して警察に向かう場面転換での軽快というより暴力的なギャロップはディエスイレのパロディだと説明されてきましたが、個人的意見ながらこれは引用の引用であって、よりしっくりくる元ネタ、パロディの対象と思われる曲が存在してます。グラズノフの交響曲第五番の第4楽章です。ロンド=ソナタ形式の中間部(中間部ですよお間違え無く)に導入される新しいモチーフはそれこそディエスイレの引用と思われます。このくだりは短調がベースで良くも悪くもくそ真面目な印象の音楽ですがシンコペーションであったり三連符での飾りなどがあって、長調にひっくり返して馬鹿騒ぎに仕立てたパロディのギャロップはきっと当時のロシア=ソヴィエトの聴衆にはピンときたのではと想像します。本家が終盤長調化して盛り上がって行く時、私はパロディの記憶から苦笑するしかないです。
 https://youtu.be/hqEie5WZhlc?si=TtBa5EOH9tCxmgWf

 若きショスタコーヴィッチに目をかけ経済的援助も行っていたと伝えられるグラズノフですけど、例えば問題書、偽書とされてるヴォルコフの“ショスタコーヴィッチの証言”にはアンビバレントな記載が多く、ロシア人にとっては常識的なのでしょうか。ショスタコーヴィッチの交響曲第一番でグラズノフが和声の変更を助言した箇所を結局受け入れなかったエピソードも印象に残っています。
 グラズノフは1928年に事実上の国外亡命の後、1936年3月21日パリで没しました。ショスタコーヴィッチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の初演は1934年1月22日、その後世界各国で盛んに上演されたそうですが、グラズノフがそれに接する機会があったでしょうか。ムツェンスクのギャロップ、間奏曲の元ネタがグラズノフの交響曲第五番第4楽章では?とできることならネーメ・ヤルヴィさんに意見を聞いてみたいものです。





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