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モラリスト

 ピーター・ヘイワースがクレンペラーにインタビューしている映像で有名な場面、ブルーノ・ワルターについて尋ねられ、彼はマイルドでジェントルで、語弊はあるが「モラリスト」だがしかし私は違う、断じて違う!(absolutely not)と吠える。
 モラリスト。道徳家、常識人、ふしだらの反対?

 アルバン・ベルクの歌劇「ヴォツェック」第一幕1場、大尉が歌う。aber ... Er hat keine Moral! … Moral!

 アンゲルブレシュトのペレアス1951年イギリス録音のTestament盤ライナーノーツにこんな一節が。
 「…カミーユ・モラーヌはピエール・モントゥーの見解を聞いて落胆したことがあると語っている。モントゥーは、ペレアスを単なる‘女たらし’と認識していたというのだ。モラーヌはモントゥーにこの考えを改めて欲しいと申し入れた。 そうでなければこの役で共演はできないとまで考えたのだ。
 モントゥーも当然指揮してるでしょうし演奏記録があればいいのに。それはそうとなるほど、モントゥーの好みのオペラではなかったんでしょうか。この役を得意にしているモラーヌからすると我慢のならない意見だろうね。
 舞台が映像化された二度目のブーレーズのペレアス録音で舞台演出を担当したペーター・シュタインはこのメーテルランクの戯曲を好まず当初依頼に難色を示していたそうです。モヤモヤっとした象徴性みたいのを嫌がったと伝えられ、いやいやこれはもっとリアリスティックな「恐怖と残酷の劇」だと“喝破”していたブーレーズが何度も説得してなんとか実現したそうな。
 色恋、モラルを問題にするなら大多数のオペラの息の根が止められてしまうでしょう。

 1981年青土社の刊行した「音楽の手帖」シリーズの「サティ」の号に、「祝祭としての音楽」と題されたアルド・チッコリーニと山口昌男さんの対談が掲載されています。オッフェンバック、ロッシーニからサティへの系譜を指摘し、特に後者二人のピアノ曲を「モラリスト」的な傑作と言ってます。山口さんがモラリストとは、“モンテーニュあたりを出発点とする平俗性を拠り所とした人間の精神の探究といった意味で...理解している“と応じ、さらにチッコリーニは“この二人は、しばしば、ドイツ起源の音楽らしさ、深刻そうなポーズ、哲学臭さといったものを嘲笑の対象に...大変新しい次元を切り開いたと言えます。...(二人は)モリエールがそうであった意味での「モラリスト」だ…”と述べています。

 クレンペラーが「語弊があるけれど」と留保しつつワルターをモラリストと呼んだのはどういう事なのか。一説には表面上の当たりの良さ、音楽性に関してもクレンペラーとはほぼ真逆なワルターですが、日常の振る舞いにはかなり打算的だったりしたたかな面が目立ち、そういう裏表がある事を揶揄したのではと。

 最近上梓された音楽之友社on books advance 「ばらの騎士」での小宮正安さんの記述でなるほどと思ったのは、オックス男爵に表象される性愛に関わる極端な表裏をかなり赤裸々に扱った作品である事、故にウィーンなどででは今でも結構慣例的カットが多いという事でした。そんな事言うなら第一幕前奏曲がいちばんヤバいような気もしますが。R.シュトラウスには「道徳の彼岸」ニーチェとの同時代性を感じます。更に踏み込んだのがベルク「ヴォツェック」、師匠のシェーンベルクを始めとした周囲の人々はベルクがこの題材を取り上げた事に驚いたといいます。

 という訳で仮の結論、クレンペラーはモンテーニュ等が「モラリスト」と呼ばれる事も当然知りながらそれも含めて、おれっちはそんな俗っぽい表裏二面性なんかとっくに超えたところにいるんだと言いたかったんでしょう、超越的、形而上学的、つくづくドイツなんですよ。

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