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Requiem Verdi War, DSCH (その一)

 人気ですからヴェルディのレクイエムは新しい演奏の記録が絶えません。ヤニク・ネゼ=セガン指揮メトロポリタン歌劇場管が2021年録音(“9/11メモリアル“としての演奏会)の配信をしてますし、youtubeでも2020年のシャイー指揮ミラノ・スカラ座管や、2019年のクルレンツィス指揮ムジカエテルナも観られます。クルレンツィス、ベルリンフィルデビューも同曲でしたね。そのクルレンツィスがSWR管と演奏計画中のブリテン「戦争レクイエム」で現在物議を醸しているそうです。
 ヴェルディのレクイエム以上に、戦争レクイエムの演奏会は特別感、時には政治的な色彩を余計に帯びてしまう。SWR管は放送局所属なので、ウクライナ侵攻以前からクルレンツィスとの演奏記録が広く公開されてました。デビュー的なショスタコーヴィチ「交響曲第七番」は曲調に合わせて、例えば盛り上がると次々と奏者を立たせて演奏させるなどセンセーショナルな熱狂の記録になってましたが、私にはとってはただただ違和感、明言すれば嫌悪感しかなかったす。チャイコフスキー「悲愴」やマーラー「交響曲第六番」などのディスクも実は自己顕示欲のネタでしかないと感じられてきて次第に敬遠するように(個人の感想です)。
 ウクライナ侵攻後は尚更です。戦争行為に関して頑なに立場を明言しない方針のようですがそれでも変わらずザルツブルクなどで理解し難い優遇が続いていると伝え聞いていてました。ただそれすらさもありなんと思ってしまいます。そしてこんな状況下で最近ショスタコーヴィッチ「交響曲第十三番」を取り上げたことも知りました。とてもじゃないが聴いてみる気にもならなかった。仮に凄い演奏をしてたとしてそれが私にとってなんだと言うんだ?
 ロシア側の理屈に立てば、ショスタコーヴィッチやブリテンの音楽が告発しているのはウクライナのファシストどものことこそなのだ、とでも言いたいのか? それとも己の天才的音楽性は政治的な状況と無縁で関係なく常に肯定されるべきだ、とでも思っているのか?
 閑話休題、本題は別のところだったんですが、稿を改めて。

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