禁止することを愉しんでいるという意見
最近騒音関係のニュースや記事やSNSでの話題を見かけることが非常に多くなってきました。それだけ国民の関心事として大きな問題となってきたということなのでしょう。しかしまったく法整備が進まない。私はこのことが一番の不満です。
なぜ法理整備が進まないのか?少しだけ持論を語りたいと思います。まずは基準の作りにくさでしょう。デシベルだけで簡単に測れるものではないです。とても小さい音でもずっと続いたら?持続時間もいれるとしてもその境界線をどう組み合わせるのか?と難解であることにすぐ気づきます。
個人的に一番の理由だと思っているのは他の問題との兼ね合いです。例えば昨今の物価の高騰です。防音性の高い建築物にすべきと法規制すれば建築費に跳ね返り家賃もあがり生活が余計苦しくなり国民の不満が高まります。
ちなみに防音性の高い集合住宅はすでにあります。しかし家賃が高いのとあまりそういった物件がないので人気でなかなか入れないとのことです。
幼稚園や公園等は必要な施設で住民からの要望も高いです。それに対して狭い日本ではしっかり住居から離して置くことが困難です。防音性の高い構造等で対処出来ると思うのですが現実は逆になってしまっています。
しっかりした壁を作る費用をケチり金網のフェンスで子供の声はダダ漏れです。苦情を受けてあとから防音シートを張ったという話をよく聞きますが残念ながら防音シートではあちこち反射して増幅する騒音には何効果もありません。
そういった事情を踏まえたうえで国はルールを策定しくべきだと私は思っていますが国は動きません。ルール上アウトになってしまって防音性の低い集合住宅や幼稚園や公園がなくなってしまうことを恐れているのでしょう。
ドイツの例があります。ドイツは非常に騒音に厳しい国で過去に訴訟が何件も起きて幼稚園がなくなったそうです。それに対して「子供の声は騒音ではない」というルールを作りました。もちろん一方的なルールではなく騒音を出す側にも対策を求めるものです。
先日日本でもこの「子供の声は騒音ではない」というルールを適用しようという議論が起こりましたが、とても危険なことだと思います。ドイツのような歴史的変遷があり双方が納得できる方向性を打ち出していくのならばよいですが日本はどちらかというと騒音被害者を黙らせて解決したことにする傾向が強いです。お上のすることに国民は従うだけということです。被害者叩きの加熱している現代日本ではより危険でしょう。
ドイツの例をあげましたがルールというのは過去の事例の積み重ねの結果に生まれた解決の指針です。公園に張り出されている張り紙ひとつにしても過去に何か問題がおきた結果、双方の歩み寄り等によって生まれたものです。
そういった過去の事情があることは当事者でなくても計り知ることが出来ると思います。しかし、◯◯を禁止することを愉しんでいる人たちがいると邪推して愚痴を言っている人もいるようです。
私が見かけたその人は釣りが禁止されている場所があることに怒っているようで公園等別の問題も一緒にしていました。
一つ誤解をして欲しくないことがあります。苦情をいうのはとても大変なことです。時間も精神も時にはお金もすり減ります。誰もやりたくてやる人などいません。ましてや相手は役所等です。愉快犯で警察に虚偽を言う人もいますが長期的には続かないでしょう。一時のことです。
私はもう3年ほど役所や警察や教育機関や政治家の人たちに被害を訴え続けていますが心身ともにボロボロです。愉しむ余裕などありません。
夜中に公園で騒いでる人たちが警察に逮捕されていたときはざまあみろと思いましたがそれは愉しいという感覚ではないです。マイナスが少しだけ晴れただけです。0以上にもなりません。不愉快な感情だけが残り夜眠れなくなります。
騒音被害者を憐れんで同情して下さいとまでは言いません。しかし、愉しんでいると勘違いだけは絶対にしないで頂きたいです。
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