騎士団長殺し(読書感想)

三年前に発行されたものですが、どうしても手に取りたくなかった作品。読むと面倒なことになるのがわかっていたのに……
まあ、そんなことを言っていても仕方ないし、読んだのだからアウトプットします。

……………………………………

村上春樹さんの村上春樹さんによる村上春樹さんのための小説。それ以上でもそれ以下でもない。
彼は、いつかのタイミングでデタッチメント(なにごとにも執着しない、ただの視点)からコミットメント(行動)へと変わった?変わる?と言っていたが、本作の主人公はいつも通りの受け身だ。誰かが主人公になにかをする→主人公へ関連性が発生→主人公は行動せざるを得ない。これのなにがコミットメントなんだろうか?
村上春樹さん的に言えば「彼は肩をすくめ、やれやれ仕方ないといった様子で、嫌々な雰囲気を隠そうともせず、スツールから腰を上げた」程度のものだろう。
私は意識的、無意識的に関わらず行動には責任が付随するものだと考えている。
彼は、作中で「買い手責任」なる言葉を遂に発した。それは、彼の作品の読者が常々感じてきたことだ。言葉を換えるなら「読み手責任」を堂々と宣言した。どう読んで貰っても結構、私には責任がないと言っているのだ。
私は芸術家の類いに責任を取って貰うつもりもないし、取れる資質がないことはわかっている。
だが、それをわざわざ言葉にするのは、ヒトとしてどうかと思う。
ある側面では、彼は超えてはならない一線を超えた。
もしかすると彼の言うコミットメントとは、歴史の一端に触れることを示唆しているのかもしれない。本作もナチスと南京虐殺、そして物語とまったく無関係で被災者を不快にさせる可能性が高い東日本大震災を最後の最後で持ち出した。
歴史にはコミットメントしようもない。もう起きたことなんだから。それとも彼は歴史の責任を自らが負いますと言っているのだろうか?
いいや、そんなことはない。
彼のモチーフが徐々にコミットメントへ向かっていることを匂わせているだけだ。
イメージ先行の政治家とほぼ変わらない。
次の作品を期待させることだけが、彼の目的なのだ。そして、見事にそれに成功している。
「伏線が回収されていないから、第三部があるかも」とか、巧妙に仕掛けられた罠に、見事引っかかっている読者が少なくない。
今回、コミットメントを匂わすために御都合主義的に「娘」かもしれない人物を登場させたが、育児のシーンの軽いこと、軽いこと。ペラペラ、というか、もはや嘘。
彼が子育てしていないことは、ほとんどの読者は知っているし、おそらく誰もそんなシーンを描くことを期待していない。
彼はストーリーテラーとして一級品だ。
それは疑いようもない。
中毒性も高い。
なぜか?
誰にも想像のつかない、突拍子もなく、壮大で、お洒落なマスターベーションを見せられているからだ。(滅多に見られないから希少価値がある)
そして、いつか私とセックス(コミットメント)してくれるんじゃないだろうかと、読者は嵌まり込んでいく。
次は、どんなマスターベーションになるのか、本作が遺作になるのか。
私としては、そろそろ、彼自身の年齢通りの主人公が登場して欲しい。年寄りのマスターベーションをどうやってお洒落に描くのか……
まっ、どうでもいいか。
無責任でいることを、わざわざ宣言した作家に、あまり興味を持てない。
いや、それでも次作が出たら手に取るかもしれない。
私も中毒者だから。
ああ、もう、嫌だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?