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日テレ「セクシー田中さん」調査報告書に感じたNHKとの相似性

※このコラムは、小学館サイドの報告が出る前の限定的な情報に基づいて書いたものです。改めて2024年6月上旬に内容をアップデート版を投稿する予定です。

先日日本テレビが公開した「セクシー田中さん」を巡る一連の事案についての報告書が、業界内外で波紋を呼んでいる。

私も早速読んだクチだが、著作者人格権が蹂躙され原作者が追い込まれていく様子と、日テレ・小学館の極めて他人事で、何なら「制作の障壁」程度にしか捉えていない被害者意識との対比が生々しく、他人事とは思えない感覚があった。

報告書そのものについての詳しい内容は他の業界関係者に譲るとして、私は本件とNHKの相似性について、「表現の自由の濫用」の観点から所感を述べたい。

口をつぐむNHK ブーメランを恐れてか?

日テレの報告書は、この手の調査報告としては異例なまでに事細かに交渉内容などが記述されている。こんなものを公開したら苛烈に非難されると日テレ幹部も理解していただろうが、それでも敢えて公開した点を私は評価したい。

だが、奇妙な点がある。

これほどニュースバリューがあり、5/31当日に新聞各社が報じている事象にも関わらず、NHKはこの件に関して口を噤んでいるのだ。6/3午前時点でも、まだNHKが何かニュースを報じた形跡は見られない。

※5/31に報じていたとのことです。あくまで概要のみで問題の掘り下げはありません。

「情報空間の参照点の提供」を放棄している。

一体なぜなのか?それは、NHKに対して大ブーメランになるからだ。

2012年にNHKが放送予定だった『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を原作とするドラマを巡り、クランクインの2週間前までNHKは版元の講談社にプロットを伝えていなかった。しかも「容認しがたい改変がされて」おり、講談社としてはドラマ制作を容認できない内容だったのだ。

驚くのは、ここから先の展開だ。日テレを遥かに超える異常な対応をNHKは行った。

NHKは、講談社に対し約6000万円の損害賠償を求めて提訴したのだ(東京地裁はNHKの要求をすべて棄却したが、NHKはこれを不服として控訴し、その後和解)。

さらに驚愕すべきは、裁判におけるNHK幹部の証言だ。

放送局として、我々が作る編集内容に関して第三者が口を出せるということを認めてしまうこと自体が認められない。ほとんど検閲に当たります。

講談社プレスリリースより

原作者の意向を受けて出版社が脚本に意見を述べることを「検閲」と同一視するNHKに対して、講談社は「衝撃を覚えた」とリリースに記している。

この一連のNHKの対応、日テレの対応と相似形ではなかろうか?

TV制作者として正直に言えば、この対応はTVとしてはデフォルトだ。他にも前科が無数にあるのは間違い無い。NHKとしては、過去を蒸し返される事を嫌って、本件に対して消極的な姿勢を取っているように、私には見受けられる。

「表現の自由」を盾に原作者・取材先を「厄介者」扱いする風潮

今回、日テレの報告書では原作者を「難しい」と制作サイドがレッテル貼りしていたことに触れている。

著作者には著作者人格権が存在する。加えて、そもそも作品に対する情熱を持つからこそ名作が生まれるものだ。この点については、ドラマ含めてTV制作者も、広い意味では同じカテゴリーに属するクリエイターとして同意するだろう。

にも関わらず、なぜ原作者とTVが反目し合う事態がしばしば起きるのか?

TVの理屈に従っていうなら、TVはコストがバカほど掛かるという事がひとつ。制作費だけでなく、関係各所の調整含めて、コミュニケーションコストも掛かる。特にスポンサーとの連携は極めて複雑だ。故に「阿吽の呼吸」が成立する「内輪」の閉鎖性が意思決定を支配してしまう。

もうひとつは、編成(尺)の問題だ。1話ごとを均等な尺にして1クールを構成する上では、原作を「素材」とみなした上でのダイナミックな再解釈も必要となる。この点は、ドラマに限らず、ドキュメンタリー制作でも同様だ。

これらの事情を理解していてドライブが容易な原作者・取材先は「良い取材先」、そうでなければ「難しい」とか「厄介者」とレッテル貼りするのがTVに共通する行動原理と言ってよい。

厄介者を排除するために用いる伝家の宝刀こそが「表現の自由」というわけだ。

事前の部外試写を「オウム事件」を盾に全て拒絶するのは、代表的なやり口と言える。

ゴールビジョンの共有こそが全てに優先する

では、どうすれば良いのか?

もちろん、原作者や取材先に言われるがままの放送を出すというのは違う。時々、若い制作者が誤解しているが、何より重要なのは視聴者の方を向く事だ。

その時、最もエンゲージメントが高いのは作品やテーマに関心が強いファン層であるからして、最初の受け止めと拡散を担うそうした層に適切に受け止められるように制作するのはマーケティング的な正解ではある。だが、それだけでは不十分だ。

結局は、チーム全体でのゴールビジョンの共有こそが最も重要だ。社会に対して何か有益な事を訴えたいからこそ、TVメディアに協力するのだ。

そのゴールビジョンを打ち出し、適切に言語化した上でコミュニケーションするのが、トップに位置するCP(チーフ・プロデューサー)の役割だ。もちろん、これはディレクターの基本動作でもあるのだが。

そのゴールビジョンに基づいての設定変更なら何の問題も無い。むしろ歓迎されることの方が多いだろう。一方、ゴールビジョンの共有無き独りよがりの変更は対立を生むだけだ。

摩擦を恐れて、「表現の自由」の盾に隠れるなどメディア不信を招くだけでしかない。今一度、過去の事例も全て掘り起こして分析し、なぜ齟齬が発生したのか?どうすれば良かったのか?改めてメディア関係者全員が考え直す必要がある。

メディア関係者の皆さん、貴方の職場で協力パートナーを「厄介」とか「難しい」とか「面倒」と言ったりしていないだろうか?だとしたら、遠からぬうちに不祥事が起きる。私も同じ過ちをした事があるからよく知っている。

なお、NHKの捏造報道でも「あの取材先は厄介だ」などと内輪では言い合っていたのを私は知っている。NHKも要注意だ。

もし宜しければサポート頂けると幸いです。取材費の他、Twitterのプロモーション費などNHK健全化の為の取り組みに活用させて頂きます。