55歳で無職です 6 【思い出した昔の記憶】
【今朝】
朝、窓を開け空を見上げる事が多くなった。
まともに働いていた頃は、空を見上げる余裕がなかったような気がする。
空を見上げていると、1日とて同じ空は無いことに気づく。
雲の有る、無し、形、色、空気感。
そんなことを感じていると、なぜか過去の事を不意に思い出す事が多くなってきた。
これは、どうしたことだろう。
それはいい思い出だけでなく、思い出したくもない、嫌な事も当然含まれている。
過去の嫌な記憶を、消しゴムでこすって消せれば良いのだが、そうもいかない。
何十年も思い出さなかった一つの出来事を、今朝、思い出してしまった。
【友人二人と共同生活】
一人暮らしの生活を始めて、かなりの年月が経つが、かつて私は大学生時代、男三人でアパートの一つの部屋を借りて共同生活を送っていた時期がある。
他の男二人は同級生で、水上と赤井、三人とも仲が良く気が合っていた。
【友人の痴態】
共同生活を始めて一ヶ月ほど経ったとき、アパートに帰ると、私はとんでもない場面を目撃してしまった。
水上が〈ダッチワイフ〉相手に性行為をしていたのだ。
〈ダッチワイフ〉とは、裸の女性を模した、言ってみれば等身大のフィギュアのような性具だ。
この模造全裸女性を使って、水上は自慰行為というか、擬似性交というか、をやっていた。
〈ダッチワイフ〉は今でこそ〈ラブドール〉なんて言われかたをしているが、昔は〈ダッチワイフ〉と言っていた。
現在の〈ラブドール〉は大昔と違って、かなり見た目も品質も良くなっているようだが、何十年も前の〈ダッチワイフ〉時代は、ビニール製で、それに空気を送り込み膨らませるのが主流だった。
〈ダッチワイフ〉の頭にはモジャモジャの造毛を付け、目は閉じた状態で、口は閉まりなくアングリ開いており、胸は申し訳程度のふくらみ、股間は挿入用の穴があり、こちらにも造毛が施されている。
まさに〈風船人間〉といったところなのだ。
そんな物が世の中にあるのは知っていたが、本物を見たのは後にも先にもその時限りである。
当時の〈ダッチワイフ〉を製作していた業者さんには、本当に申し訳ないが、私個人としては、
「とてもじゃないが興奮するシロモノではない」
そんな印象しか持てなかった。
水上は全裸で〈風船人間〉を汗まみれに相手をしていた。
当然私は、見てはいけないものを見てしまったショックがあった。
水上は私がいることに気がつき、こちらに顔を向けると、
「いたのか」
ニマーと口を歪めて笑った。目が若干吊り上がっていたように見えた。その時の表情は今でも覚えている。
「まだ終わってないから、もうちょっと待ってくれ。見てても良いぞ」
最初は恥ずかしさを隠すために、そんな事を言ったのかと思ったが、ニンマリした不気味な顔つきが、強がりではないように思えた。
だからと言って、私がその場で水上の痴態を鑑賞しようだなんて思うわけがない。
すぐに踵を返しドアの向こう側へ退散した。
「まいったな、これは」
二階から鉄階段を降りて、その辺を15分ほどウロウロしてから再び部屋へ戻った。
「どうだ、観戦した感想は?」
一戦交じり終えた水上は私に言った。裸ではなく服を着ていた。
〈風船人間〉は空気が抜かれ、丁寧に折りたたまれていた。
なんとなく、その〈風船人間〉に悲哀を感じた。
私は、なんて言って良いものか戸惑ったが、
「見なかった事にしたほうがいいか?」
それぐらいしか出てこなかった。
「なんで?いいじゃねえかこれくらい。見られたって構わん。赤井はとっくに知っている」
先ほどと違って柔らかい表情に戻っていた。
赤井は知っていたのか・・・アイツはどう思ったのだろうか?
世の中には色々なタイプの人間がいるもので、性的な行為をあからさまに話したり、見せたりするタイプも、かなり多い。見せつけて興奮する者もいる。
水上は〈恥〉という感覚をあまり持ち合わさない人間なのは、どことなく知ってはいたのだが・・・
これは後々思ったことだが、水上は私に自分の痴態をわざと見せつけたのではないか?と疑惑が浮かんだ。
私が部屋に帰る時刻は大抵決まっていたから、それに合わせて見せびらかして、楽しんだのかもしれない。
いや、水上からしたら、ちょっとしたイタズラだったのかもしれない。
私は水上の趣味思考をこの時、初めて垣間見たような気がした。コイツには、こういうところもあるのか、と。
赤井とは、この出来事に関する話は一切しなかった。こんな話をしたくはなかった。
それからというもの、私は水上のことを、それまでの水上として見られなくなってしまっていた。
見たくないものを見、知りたくない事を知ってしまった嫌悪感が、どうしても拭い去る事が出来なかった。
このあたりから、私は三人での共同生活に息苦しさを感じるようになった。当の水上にだけでなく、赤井に対しても、どことなく嫌悪感を持つようになってしまった。
それがなぜなのか、今だにわからない。
別に赤井は、何も悪いわけではないし、私に対する態度も変わらなかった。
私だけが違和感を覚えていた。
【離脱】
そんな曇りがかった気持ちを抱えたまま数ヶ月が経ち、私はそのアパートから離脱することにした。
友人二人に対する感情に加え、金銭的な事情もあった。
その後、水上と赤井は私の知らない下級生を新たな下宿人として仲間に引き込んでいた。
次第に、私は友人二人と疎遠になっていった。
離脱してから1週間か10日ほど経った頃、大学の帰り際、かつて住んだアパートの部屋を路上から見上げると、窓際の手すり部分にクシャクシャになった〈ダッチワイフ〉が、天日干しされていた。
私は何の感慨も持たなかった。
私が他人と共同生活を送ったのは約四ヶ月、唯一このときだけであり、その後他人と屋根の下を共にしたことは無い。
【過去と未来】
働きもしないでいると、〈未来への不安〉と共に、〈過去の余計な事〉も思い出してしまう。
これからも、昔の事を不意に思い出す事が多くなるかもしれない。
本来〈今〉を精一杯生きていれば、それが〈未来へ〉つながり、過去の記憶の引き出しを引っ張るより、新たな記憶が上書きされていくはずだ。
私にとって、それが良い記憶になるか、ならないかはわからないが、
〈新しい記憶〉を掴むために、〈自分を焚き付けなければならない〉、と思う。
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