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夢日記=創作なら、登場人物は二次元キャラ…ってコト!?

現実では長らく会っていないけど、夢ではよく会う人が居る。
1人や2人でなく、たくさん。
亡くなった祖父。卒業以来会っていない同級生。連絡先すらもわからない昔の友人、など。

日常生活では思い出すことも少ない人たちが、なぜか夢の登場人物としては重用されている。

ふと、そういう人たちは「私の夢日記上にしか存在しない人物なんじゃないか?」と思うことがある。

私は「夢は、手応えのない創作活動である」と考えている。それで言うと、夢に出てくる人たちは、私の作った物語の登場人物ということになる。

夢日記の登場人物は、たとえるなら、『ちびまる子ちゃん』のキャラのようなものかもしれない。現実に即してはいるが、二次元キャラとして存在している。

「さよならだけが人生だ」という言葉もある。
人生の中でいつの間にか「さよなら」した人たちの記憶は、心の奥底で熟成され、新たに私の夢の登場人物としてリブートされている。

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ただ、夢の登場人物が、完全な二次元キャラと違うのは、「ふたたび同じ次元に現れる可能性がある」ことだ。

今後の人間関係に登場する可能性を秘めているという点が、二次元と三次元の違いである。

昨年、夢日記にたびたび現れる同級生に久しぶりに連絡を取ったとき、自分からメッセージを送ったくせに、いざ返事が来たら「実在するのかこの人…!」とビックリするという、「夢と現実の逆転現象」のようなものが起きた。
やりとりをしながら、「うわっ、夢日記でよく出てくる人だぁ」と、ちょっとした感動すら覚えた。私がアホなだけか。

また、コロナ禍が明けて数年ぶりに実家に帰ったときも、懐かしさというより「わあ、夢で見たことある場所だ~」という感想を持った。

これは多分、夢日記を付け続けることで、「夢の世界=記憶、過去の世界」がパワーを持ちすぎた結果なのだろう。
それが良いことか悪いことかはわからない。ただ私の中で、認識とか意識の新しい居場所として、確実に「夢の世界」というカテゴリーが出来ているらしい。

私は現実で関わる人が極端に少ない。家族、近所に住む夫の両親、子の学校や習い事関係者。全部合わせても20人も行かない。

スマホのデータ容量のように、人付き合いの容量というものが決まっているのなら、私は空き容量だらけということになる。
その空き容量が、まるまる「夢の世界の登場人物」に当てられているから、私は(一般的な感覚で言えば)異常とも思えるほど、夢に執着している状態なのかもしれない。

現実生活の空疎さが、私の夢偏重の原因のひとつである。

「夢の世界」を「過去」と言い換えるなら、私は現実という「今」をないがしろにしている、とも言えるかもしれない。それは建設的な生き方とは言えない。

やはり人間の生活の基本は、現実=今=三次元にある。
夢の世界=二次元を適度に楽しみながら、三次元の充実を図っていきたい。

二次元は、三次元からしかその栄養を得ることが出来ない。現実を楽しむことが、面白い夢を見る近道だったりするものだ。

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