麻酔で意識が途切れるように
中村うさぎさんのインタビュー記事。
興味深く読んだ。
特に、心肺停止になったときの話。
走馬灯を見たとか、スピリチュアルな類の体験は一切なく、テレビの電源を落としたように「プツン」と意識が切れて、その後は、闇があるだけだったという。
死というのは、そんな風にやってくるものなのかと、生々しく想像しながら読んだ。
私の人生にはまだ、生死に関わるような体験はない。
強いて言うなら、数年前、全身麻酔の手術を受けたときが、最も死に近い状態だったのではないかと思う。
まさに「プツン」と、闇がやってくる感覚を味わった。
――午後2時過ぎ。私は手術台の上に横たわっていた。
手術着を開いて裸になる。下着も何もつけていないのでスースーする。
胸に心電図のパットが貼られる。冷たい。
左腕がチューブでぎゅうっと絞られ、注射が打たれる。
私はそわそわと、目玉だけで辺りを見回している。
手足は拘束されていて、身動きは取れない。
狭い手術室に、看護師が二人。いや三人。
足元にはおじいさん医師が控えている。
心電図の電子音。
金属の器具がカチャカチャ鳴る音。
頭上で交わされる看護師たちの会話は、何となく暢気そうである。
自分の切迫した心情とあまりに乖離した態度に、不安が募る。
目玉をぎょろぎょろ動かしていたら、看護師に「瞼は閉じた方がいいですよ」と言われ、大人しく従う。
何の変哲も無い時間が過ぎる。
身体には何の変化も起きない。
私は本当に、今から手術を受けるのだろうか。
打たれたのは、本当に麻酔だろうか。
まさか、ただのビタミン注射ではなかろうか――。
などと疑い始めた頃、看護師が言った。
「一緒に声を出して、数を数えてくださいね。ゆっくりでいいですよ。
いーち、にーい、…」
私は阿呆のように、「いーち、にーい、さあーん」
と数えた。3までは、確かに数えた。
誰かに名前を呼ばれ、肩を揺すられる。
目を開けると、私は、病室のベッドの上に居た。
看護師さんたちは、もう手術衣を着ていない。
床に置いてあった私の洗面道具やバッグを脇によけ、点滴の準備をしている。
私が目覚めたのに気付いて、「気分悪くないですか、吐き気はありませんか」と看護師さんが尋ねるが、状況が理解できず、聞き返す。
「手術、終わったんですか?これからですか?」
看護師さんたちは、一瞬戸惑いの表情を浮かべて、顔を見合わせた。
そして苦笑いを浮かべ、「無事に終わりましたよ。あとでガーゼの交換に来ますからね」と言った。
それで初めて、私は、自分の手術が終わったことを知った。
俄かには信じられなかったが、確かに、患部からは血が滲んでいた。
なんだか、狐につままれたような心地だった。
辺りは、いつの間にか、夕暮れに染まっていた。
――回想終わり。ちょっとショートショート風に書いてみた。
本当に、まぶたを閉じて、次に、開けただけ。
手術の記憶はそれだけで、あとは何も覚えていない。
それこそ、テレビをプツンと消したように、暗闇があるだけだった。
何の感覚もない。意識もない。
時間も、意思も、自分という存在も、幸も不幸もなかった。本当に、何もなかった。
たかが麻酔の体験で大げさかもしれないが、もし、あれが死の感覚に近いのならば、死と言うのは、我々が考えるような、大それたものでも、恐れるべきものでもないのかなと思った。
“まぶたを閉じて、二度と開かなければ、それが死”で、その後の世界など、無い。あるのは「無い」という事実だけ。
本当は、死とは、ただそれだけのことなのかもしれない。
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