俺の中のコアラ
わきあがるものを大切にし始めている気がする。
たぶん、それを言葉にするならば、能動的とか内発的とかになるんだろう。
身体の内側からわきあがるものと、頭の中からわきあがるもの。
感情と直感と言い換えてもいいかもしれない。
それがネガティブであろうとポジティブであろうと、動物の本能のように、いや自然法則のようにというべきか、その時の自分という惑星あるいは宇宙の法則みたいなもので動く。
人間は本能が壊れている「欲望の生き物」であり、その時々によってその欲望も変わってしまうデタラメな存在なので、自然法則というにはあまりにもモロいものだけど。
俺がそうであるだけで、みんなはそうでないのかもしれない。
となると、動物の本能の方が近いのだろうか。
それとも、運動神経と言った方がいいのだろうか。
なんにせよ、俺はそういうものでしか動けない。
目の前の経験したことのないよくわからない問題に対して、いまこの瞬間にすべてを一から組み立てて思考して動くなんてことはできない。
運動神経という言葉は、その不可能なことに対しての解を与えてくれた。俺は感情と直感で動いていいし、たぶんこれからもそうやって生きていくしかないんだ。
その生き方はひどくあいまいで、どれだけそれらで幾度の問題をこなしていったとしても、それらを構造的に理解したような気がしない。
だから俺は死ぬまで何もわからないだろうなと感じている。常に自分には理解できていない何かがあり、間違えた瞬間、あるいは時間が経ってから何らかのタイミングでその足りない部分を直観する。
ここ一ヶ月くらいのあいだに「いつだって能動的であるべきなんだ」と感じることがおおくなった。
受動的な態度ですら、能動的であるべきだと考える。
それは「内発的能動をベースとして、能動的受動をしていくこと」とでも言えばいいんだろうか。
まだよくわかっていないけど、なんとなくそんなことを考えている。
消極的で卑屈な態度は、強く生きていくための精神的なエネルギーを生まない。
弱者というポジションをとっている限り、あらゆること(は言い過ぎかもしれないけど)に対して卑屈になり、ネガティブなパワーを他人にぶつけることしかできなくなってしまう。
そういう人は、自分の欲望を自覚し、他人に魅力や利益を提供し、対価として何かを受け取れるようになろうとはあまり考えない。
つまり、「こども」なんだ。
大人になりきれず、かと言って子供でいづけることもできずにいる。
大人を演じようとしている。言葉で対話をしようとしているように見せかけてはいる。
しかし実態は、無力な子供のように「ヤダーーーーーッ!!!!!」と叫んでいるだけだ。
納得もなく、断念もなく、現実的に自分の欲望を満たすための方法を考えるでもなく、すべての責任を他人に押し付けて当たり散らかす。
その姿は、俺の思う大人の姿ではない。
さっきテキトーに組み合わせてつくった言葉「内発的能動」も「能動的受動」も、「こども」にできることではない。
大人になるということがなんなのかまだよくわからない。
ちゃんと言葉で説明できる状態にない。
ただ、なんとなくこれまで書いてきたようなことをやっていくべきなんだろうなと思っている。
あらゆることは、元を辿れば他者の責任である。
俺を産んだのは親だから、親が悪いと言えばそれまでだ。
甘えたければ甘えていてもいい。
親のせいにしつづけて、不幸な自分を憐れんで生きるのもそれはそれでひとつの生き方だ。
良いか悪いかは別にして。
俺は「すべて神が悪い」という結論に達した。
親が生まれたのは親の親のせいだし、親の親が生まれたのは親の親のせいだし…でもまてよ、そもそも人間が生まれたのは誰のせいだ…?神やん。そんな感じ。
言葉遊びもいいところだ。
でも、俺はこの結論がとても好きで、ここに辿り着いた時にすごくうれしかった。
根拠のないアホみたいな「神が悪い」という一言で、責任をひとつの概念に押し付けることができたからだ。
そういうバカにでもわかるクソみたいな理屈が大好きだ。
さて、神が悪いとして、どうするのか。
親も、親の親も、親の親の親も、あらゆる人々の責任が免除された。
だから、もう他人のせいにすることはできない。
だって、神がすべて悪いのだから。
であれば、やれることは、自分がどうしていくかを決断し行動していくだけだ。
俺の他責の絶望は反転し「すべて神が悪いならばここから先のことはすべて俺の責任である」という希望に達することができた。
しかし、正しいことをやろうとしても、うまくできなかった。
体力もなければ、多様な経験もない。
すべてから逃げ続けてきたから、俺は何ももっていなかった。
だから、俺は大して他人に提供できるものをもっていなかった。
師の教えどおり、体力をつけてきた。人と会うようにしてきた。大量の失敗をした。ほとんど失敗しかなかったと言っても過言ではないくらい、失敗ばかりしてきた。
しかし、少しずつ正解らしいものも見えてきた。
そのおかげで、感情的に、直観的に、その正解らしきものを選ぶことができるようになってきた。
失敗しても、また失敗することを恐れずに(イヤだけど)何かをやりつづけるようになってきた。
きっとそれらの経験のひとつのゴールとして「常に能動的であるべきだ」という言葉が出てきたのだと思う。
子供のように泣き叫ぶだけで終わるフェーズは終わった。
弱者というポジションはもう二度と取りたくない。
神のせいにしつづけても、神は俺の話を聞いてくれないし、殴らせてもくれない。
だから、俺はあらゆる責任を自分のこととして生きていくしかないとあきらめたのだと思う。
たぶん理屈的にこれ以上の結論はあり得ない。
よくわからないことをよくわからないまま書いてしまったが、最近はずっとこんなことを考えていた。
今年のテーマは「大人になる」。
もう、大人になるしかねえ。それ以外にやれることが見つからない。
金を稼ぎ、能力や魅力をつけていき、できるだけ他人に分けられるものを分ける。
そうやって自分のできる範囲で人生をやっていくしかない。
これしかないって生き方をやっていくしかないんだ。
(めちゃくちゃな文章だ)
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