わりと日刊だらく[No.18]〜起床と希望〜
今日もテキトーにやっていきます。
今日の散文
起床と希望
数年前の僕には朝が来なかった。
ただただ、疲労があり、退屈があり、思考停止しながら不感症の人生を送っていた。
数年前の僕は毎日何度もレイプされながらも、顔には無表情が張り付いていて、この世界への軽蔑とあきらめを示している、そんな、ただ死ねないだけの肉塊だった。
明日何をするかを嬉々として思い描く子供のような、ワクワクした気持ちがなかった。
死にたいが死にきれず、しかし何かがあらわれることをあきらめきれず、だが絶望を消し去るだけの何かを持ち合わせていなかった。
その日に期待すること、何かを思い描くことすらなかった。僕の中には、その苦痛に満ち満ちた時間をやり過ごすために強い快楽や強い苦痛で埋め合わせること、次々と穴が開いていく風船にどうにかテープを貼り空気を入れそれなりの張りを保つのに必死だった。
レストランに入り何も選ばずにいた。次々と出てくる料理を見て「これじゃない」と駄々をこねていた。そのレストランで出てくるものはすべて退屈だった。僕のお腹は満たされていたが、心が満たされることはなかった。どれだけ食べても心は満たされなかった。料理を投げても、罵倒しても、退屈な料理だと知りながらもとにかく量を平らげたりしても、心が満たされることはなかった。心を満たすために何をするべきか、他に方法を知らなかった。
起きた時に思い出すことは、また退屈で苦痛に満ち満ちた日をやり過ごさなければならないという事実だった。そう信じていた。そう信じているから、どんなにつらいことすべてから逃げても、いつまでもつらかった。
平和に暮らしていた少女がレイプされた記憶は、死ぬまで残り続ける。汚いおじさんの汚い欲望が存在ことを否定することはできない。その触感を生で感じてしまったのだ。もう消し去りようがない。この世界の絶望を押し付けられた人の目は、にごり続ける。
与えられたものを食わされるだけの人生の賞味期限が来てから既に何年も経過していた。
レイプされた記憶は常にゲンザイする。絶望的なほどに暴力的で生臭い手触りを伴ったその信仰の根は深い。
何度起きても、そこは夜だった。
ここ数ヶ月、僕には朝が来る。
今日も朝が来た。
疲労はある。少し寝不足だ。やりたくないことはあるし、やりたいことはあるが、そこには時間的制約があり、すべて自分の思い通りにはならない。今日もまたどうでもいいことをやってどうでもいい人たちのどうでもいい日々の手助けをする。これらは事実だ。
だが、朝はある。希望がある。
愛があり、ただゆっくりと歩きぼんやりと辺りを見渡すことへの楽しみがあり、どうしようもない時間にそのどうしようもなさの中に自分を発見しようとする気持ちがある。
ただそれだけの人生を続けていこうと思う。続けていきたいと思う。そう願う。僕の人生に望めるものはこれしかないと思う。これからもずっと。
一寸先は闇。いつ終わるかわからない明日に向けて、まだ終わっていないという奇跡と、望める明日があるこの可能性に満ちた自分を認めよう。
今日も僕の身体は引き裂かれていないし、脳みそも他の内臓も、骨と肉の中に収まっている。十全だ。
望むものを思い描き、ただ今やるべきことをやっていく。今できることだけをやっていく。
きっと明日も朝が来る。そう思えることが希望だ。
もし明日、今日と同じような朝が来なかったとしても、それを受け入れられる自分であろう。
僕は今日も理不尽に身体を引き裂かれる可能性のある世界を生きていく。
それだけは忘れてはならない。
今日のエセ太極拳
片足の重心が前に行っている時、それを戻す時にどうしても「地面を蹴る」という動作が発生せざるを得ないのを発見した。
僕は何のプロでもないのでそれが本当かどうかはわからないのだが、少なくとも僕の場合、すごく強い筋肉がありでもしない限りは「地面を蹴る」という爆発的に力を出すための作業をしなくてはならないっぽい。
それをある一連の動作の中にスピードの緩急をつけることによって理解した。
教わるのは嫌いだし覚えるのも面倒なので、「思いつきでランダムに色んな身体運用を積み重ねていく」というただそれだけの作業をこれからも引き続きやっていく。積み重ねていく。
音楽
ドラムもベースもなくても成立する世界がある。懐かしい。安心する。
死ぬ前にオススメ(まだ死んだことないけど)。
一人組
くらがりチャレンジ
聞いたことない音楽を色々聴いた。
贈与
なし。
パブリックを思い出す
やった。
小休憩
やらなかった。労働してなかったし、まぁいいか。
観察と感想
雲を眺めた。身体の感覚が起きてきて、ふわふわとした、ゆらゆらとした。
愛を思い出す
やった。
終わりに
今日は、今までに何度か対談している人とまた対談した。4時間くらい。
祈りについて話した。瞑想が祈りになったこと。祈りと武道の繋がり。散歩も、文章を書くことも、すべて祈りであり、僕はそれらを誰にも教わらずに1から積み上げてきたこと。積み上げた末にできたカタは、僕が欲している身体感覚がベースであること。身体感覚をベースとして、周りにカタで肉付けしていくこと。苦しみには意味があると感じられるようになったこと。すべてに意味はないし、誰も何も理解できないし、人間は誰もどこにも到達できずにただ死んでいく存在であると思っているということ、それでいいと僕は思っているということ。色んなことを話した4時間であった。
納得してやっていくために必要なことは人によって色々違うが、身体感覚はどの人にとっても重要であり、それがすべての出発点だと僕は考えている。だから再度、彼女には祈りを勧めた。
何度も書いている気がするが、祈り続けて自分がいたいと思える場所を見つける、そしていつでも戻ってこれるようにする。それが僕の祈りだ。
呪いが浮かんできたらその都度丁寧に対処していくしかない。毎日、金にもならない、誰の役にも立たない、なんの意味があるのかわからない、そんな積み重ねをしていくことだけが、納得を深めていき、結果的に人生を先に進ませてくれる。僕はそう思っている。
僕はこれからもそうやっていくだろうし、祈りが必要な人にはそれを伝えていくだろうと思う、たぶん。
祈りが届かない時間すら楽しんでいこう。凍えそうな空気の中で愛を想おう。
今日も良き日であった。
明日はもっといい日になるよね、有象無象。
じゃあ、また、あした。
良い夜を。
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