私は誰?

名前の由来になった割に安吾の作品はあまり読んでいない。堕落論、続堕落論、あとはわりと最近発見された短編小説がひとつ。たぶんそんなもんだ。

肉体労働をしているのもあり、また脳みそが社会から外れたところにある感じがしていて寝ぼけながら生きてる感じがするのもあり、理解したと言えるまで読むこまないと不安で仕方がないという神経症的な行動をしたくないのもあり、あまり文字を読む余裕がなかったような気がしている。



人によっては些細なことだと言われるようなことで、激しく傷つくことがあった。俺は勝手に何かを思い込んで勝手に傷つくことがある。社会性といえば社会性だが、なんだかなあ。非常に不安定だ。

それで久しぶりに救済を求めて安吾の文章を読みたくなった。

ずっと俺が書き続けているようなことが書いてあった。安吾は俺だった。俺は安吾ではなく、安吾もまた俺ではないが、似たような苦しみの構造にハマっている人間としては同じだった。

もっとも、安吾がどうかは知らないが、俺は長いあいだ向き合うことから逃げ続けてきたわけだが。


堕落論で感じたシンパシーみたいなものは、きっと孤独と向き合いつづけてきて自分で考えて納得できる理論を編み出してきたところにあったんだろう。

誰も教えてくれない答えをもがき苦しみながらひとりで探してきたんだろう。ただ、彼には人間関係があり、明らかに俺とは違う環境にいたのは確かだけど。

自分を貶める発言をしそうになるけれど、そんなことをしても無意味なのでやめておこう。ただ、彼の苦しみや孤独が俺にはわかる気がした。

どこか同じ体質であるような、どこか同じ構造の人生を辿ってきたようなそんな気がしてならない。いや、俺にはそれすらわからない。みんな同じなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

でもふたりが同じという仮説の元に何を感じたかを説明するとしたら、アホが急にチンピラにボコボコにされて恐怖で思考が覚醒したような、そんな体験が彼にもあったのではないかという気がする。原爆の体験の話といい、ボケっとしているところがなんとなく自分に似ている気がする。

身体感覚が抜け落ちたときはどうしようもなく何も見えなくなり、逆に身体感覚だけがあって他のものが何も見えない時もある、そんなアンバランスさを感じる。すごく鈍感で、しかし異様に鋭い時もある、でも全体的にはやはり鈍感である、そんな雰囲気を感じてしまう。

しかし、これはただの自身の投影でしかないのはわかっている。もっと彼のことを知らねばならない。



これを読んで、ものすごく癒された。ジョンフルシアンテは音楽を聴いて歌詞を読んで癒された経験があるという。この世界に俺と同じことを感じている人がいるんだ。そうやって孤独が満たされたという。さっきの俺もそうだった。

理解して欲しくて、理解されず、しかしそもそも自分のことすらよくわからない。他人のことなんかいつまで経ってもわかるわけがない。手を動かしている、それだけが自分である。本質などなく、いや本質と呼べるとしたらこの身体でしかなくて、しかし条件が変われば自分は簡単に変わる。こうだと思っていた自分なんてものはあっさりとくつがえり、幻想だったとわかる。良いとか悪いとかではなく、俺はただそういう構造なんだ。そしてよくわからない構造の世界に生きている。



でも、よくわからない自分とよくわからない世界の中で生きている俺は、ビリヤードの球の動きのように、最初から最後まで決まりきった運命の中を生きているような気がする。

だから俺は自分で決めようとしてこなかったのかもしれない。わかったような気になって、しかし何もしないことをずっと選択してきたのかもしれない。

こないだの体験の話に戻ると、勝手に深く傷ついたおかげで、あまりの恐怖に思考が加速した。だから言葉と具体的なイメージですべてを規定して恐怖を殺そうとした。



「悲しみ、苦しみは人生の花だ」

これは安吾の言葉らしい。

そうなのかもしれない。じっさい、あの苦しみが良いものであったと、苦しみの中ですら思っていた。

その苦しみのなかで、今後どうしていくかを考える。書いて、書いて、少し離れてみて、また書いて、どこかで納得する。

花が咲いた。苦しみが花なのか、それとも種なのか、またどちらでもあるのか。解釈の仕方はいろいろある。どちらもよい。



こうやってまた種がまかれて、花が咲いて、無意味にいつか死ぬのでしょう。

苦しみが種ならば、考えて何かを決めて行動して咲くのが花。苦しみの花が咲きました。

苦しみが花ならば、その苦しみ自体が、他人や、その時の自分や、未来の自分からみて、美しいのでしょう。

確かに美しいと思える。でも、取り返しのつかない失敗というのは、したくないなと深く感じる。俺はそのための花を咲かせたい。



できれば誰のことも傷つけたくない。俺も傷つきたくない。でも、傷つかないと変わらない。だから俺が傷つくのはいい。じゃあ他人は?無闇には傷つけたくない。望んで傷つきにくる人がいたとしても、人を選ばなければならない。

こんなことを書いておいて、俺はやっぱり傷つくし、無意識に誰かを傷つけていくんでしょう。意図があろうとなかろうと。



優しいと言われることがあるけれど、その優しさは利己的なものでしかあり得ない。それがさみしい。太陽みたいな何かに生まれたらよかったのに。完璧な調和をなすための存在として生まれて永遠に生き続けられたらよかったのに。高性能なAIが搭載された神のようなロボットに生まれたらよかったのに。

情けない願望を持てたことが嬉しい。何も望めなくなっていたから。

ずっとこうやって考える自分が死ぬまで続いていきますように。そして、なるべく誰も傷つけずに生きていけますように。叶わぬ願いを願い続けていられますように。



失われたものが戻ってきたことが嬉しい。

欲を言えばこのまま普通の人間になって普通に死にたい。普通には死ねないというか、普通には死にたくないのかもしれないが。

こないだからずっとそんなことを考えている。いい自分になって、いい世界をつくれますように。

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