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わりと日刊だらく[No.21]〜褒められること〜

今日もテキトーにやっていきます。


今日の散文

褒められること


褒められることが好きだった。

能力が高いと言われることが。誰かの為に役に立っている、君は素晴らしいことをしたと言われることが。かわいいと言われることが。好きと言われることが。行動を褒められ、人格を褒められ、容姿を褒められ、成果を褒められ、努力を褒められ、と色々褒められてきた。褒められようとしてきた。

実際に僕が何をやったかは問題ではなく、褒められることが好きだった。

しかし、いつからか、それが毒であると気づいた。


僕の中で、表層的な承認欲求を満たすという行為は、酒とタバコと同じだった。必ずあとでダメージが返ってきた。何度も繰り返し味わったものからはもう酔いを得られなかった。

特定の成果による承認に囚われることは呪いで、それを満たそうとすることは、自らそこに囚われに行く行為だ。やればやるほどに何かが失われていく。僕は自ら牢屋に入りたいとは思わない。自由な生活がしたい。能力を高めて更なる承認を求めるのは、持続的ではないし、退屈だ。

いつか頭打ちになり、いずれ衰えていくものから承認を得ることに人生を託そうとはもう思わない。そして、承認が原動力である時、僕は大抵それをやること自体には興味がない。だから退屈なのだ。すぐに飽きてしまう。

そして、すぐに褒められることにも飽きてしまう。飛び上がり舞うほどに嬉しかったのがウソのようだ。「あぁ、このパターンね」となりむしろその退屈さに不快を感じる。

僕は、酒はもう5年以上は飲んでいないし、タバコは4ヶ月前にやめた。


去年、久しぶりにオンラインの群れに参加した時、ある人がいつも僕のことを褒めてくれた。

その人がどういう意図で言ったのかはわからないが、ひどく薄っぺらい褒め言葉だった。僕はそう感じた。理解してもらうこととはほど遠い感じがした。汚染された海の表面のヨゴレは掬うが、海底に溜まったヘドロの中にいる人は救われない。

それが良いの悪いのという話はしていない。ただ、その時の僕がそう感じたというそれだけだ。その人が悪いとは思っていない。人には人の儀礼がある。褒めることで人間関係は基本的にうまくいくことが多いだろう。ただ、その時の僕の状態に合わなかっただけだ。むしろ、そういう振る舞いをしてくれたことをありがたく思っている。何故なら、早い段階で大きな呪いをおおよそ克服できたからだ。呪いを思い出させてくれる存在は貴重だ。だから僕は群れをやらなくてはならない。それを忘れない為にも。


さて、話を戻すが、その時、僕は褒められる度に快楽と不快を同時に感じていた。その時は気付いていなかったが。

久しぶりに「自分の価値が高いと評価されている状態(カンチガイ)」が訪れて、以前はそこから離脱したいと思っていたことを忘れていたので、その矛盾する思いに混乱していた。

僕はその時、褒められる快楽と、その言葉の無意味さ無価値さの不快、また、何度も味わった味に退屈している不快を感じていたのだと思う。

しばらくして、僕はその人から離れて祈りをやるようになり、段々そういう「実質的に無害だが自分の認知の歪みにより自己攻撃してしまうような褒め言葉」から逃れることができた。


最近は、褒められることにあまり価値を感じない。褒められても満たされる感覚がない。逆に、それよって不快を感じることもあまりない。

ただ、ある程度良く見られているっぽいとか、その人がこういう風に感じているのかもしれないとか、そういう解釈だけがある。


今の僕は褒められることはどうでもいい。

僕が嬉しいのは、ざっくりと言えば「他人の役に立っていると感じること」だ。

例えば、僕のこのダラダラと書きたいことを書いているだけの記事に反応してくれる人がコメントをくれて、どう感じたとか、こういうことを思い出せたとか、何か役に立っているとか、僕の出したゴミから受け取ったものがあると感じられることの方が嬉しい。

これは何なのだろうか?

僕が誰かの言葉を読んで非常に救われたことがある時のような感覚を、他人に投影しているのかもしれない。

だが、薄っぺらい言葉に動かされる承認欲求の奴隷よりは、数段良いなと感じている。おかげで、どんな苦しみも自分のせいにできる。苦しみに意味を見出すことができる。


このように僕は、褒められることを支えとする生き方に限界が来てしまったので、別の方向にシフトしている。

僕は、褒められるよりも雲を眺めている方が好きだ。本を読み、何かを得た感覚が好きだ。文章をただ書きたいように書き、ゴミを量産することが好きだ。ただ物語を読む方が好きだ。

そして、もし人と関わるのなら、その人の役に立っていると思えるのが好きだ。

ダルくない日々をこれからも送っていきたい。


今日のエセ太極拳

太ももをあげて片足で立ち、そのあと両足で立つ。それだけのことがすごく難しかった。

だが、1日やっただけでだいぶうまいことできるようになっていた。ほとんどバランスを崩すことなく、無駄な力を入れることなくできるようになっていた。

体の動きを色々と模索し続けることに楽しみを見出している。


音楽

ただただ歌が良い。


一人組

くらがりチャレンジ
音楽と新しいアニメ。怪物事変を見終わり。無職転生を見ている途中。アニメ見てると1日終わるので、楽々できるくらがりチャレンジだ。

贈与
なし。

パブリックを思い出す
やった。

小休憩
アニメずっと見てて昼寝しただけだったので必要なかった(本を読む予定だったのだが…)。

観察と感想
雲を眺めた。カラスを眺めた。電柱を眺めた。段ボールを眺めた。10分くらい雲のカタチが変わるのを見ていると、思考もどんどん変わっていった。動的なものを見続けることと、静的なものを見続けることには違いがあるが、どちらも良いなと思った。

愛を思い出す
やらない日はない。

本とお話しする
これから(19:30)読みます。


終わりに

今日は、ずっとアニメを貪るように見ていたのだが(8時間くらいは見てた気がする)、書くネタが思いつかなかったのでニュースを見てから書いてみた。

今の自分の話というのは限界がある。そして、今の自分は、過去の自分を忘れがちだ。

だから他人の話を聞くというのは重要で、そこからネタをもらってくるのは楽で良いなと思った。

楽な上に、普遍的で良いネタがもらえるしね。

ちなみに、文章がプロに褒められるくらいにうまくなれたら良いなぁとは思っています。

プロから見て、どういうレンズで見るとどこが良くて悪いのかを知るのは楽しそうなので。


今日も良き日であった。

明日はもっといい日になるよね、有象無象。

じゃあ、また、あした。

良い夜を。

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