人生の使い方を考えなおしてみる
先月、担当した脚本の舞台が上演された。
お金をいただいて書くのは初めてなので、プロデビュー作品となる。
ジャンルはコメディで、座長は芸人さん。関西のお笑い好きなら誰もが知っているだろう大物だ。
とても気さくな御方で、偉ぶることなくド新人の僕にもフラットに話してくださった。対面したその日から、大先輩を飛び越えて大ファンになった。
終演後、座長から「ぜひ今後もよろしく!」と仰っていただいた。
引き続き脚本家として活動できることに歓喜した。同時に心底ガッカリする自分がいた。
理由は、上演された作品の内容に納得できなかったから。
座長に提出した初稿から大きく変更が加わり、本番では全く違うニュアンスで上演されたのだ。
初稿は、①→②と進む物語の時系列を②→①の順に並べ替えた構造で提出。
まもなく座長からフィードバックをいただいた。
「ボケの部分は素晴らしいから自信をもった方がいい。ただ、構成は①→②の方がオモロいと思う」
ボケやツッコミの部分はそのまま採用し、構成だけ修正してくれという指示だった。
だが、時系列を変更すると、伏線が消え、クライマックスがネタバレし、意味不明なラストになる。
変更によってさまざまな不具合が生じる。というか、物語の軸やニュアンスそのものが変わってしまう。
座長は、構成 “だけ” 修正してほしいと仰った。
しかし、今回の物語における構成変更は、川上に垂らしたわずか一滴で水質が変わり果てる劇薬なのだ。
なかなか第2稿を書けない僕の心中を察してか、座長は打ち合わせの場を設けてくださった。
僕は、構成変更で生じる不具合を資料にまとめ、座長にプレゼンした。
今回、僕はお願いされて仕事を受注したわけではなく、書かせていただいている立場だ。
本来なら黙って座長の意向に沿うのが筋だろう。
でも反論した。
座長はプロの芸人さんだ。ボケの発想やツッコミのフレーズなどの変更指示であれば一切反論しない。
座長は芝居経験も豊富だ。劇的な感動が生まれるなら、セリフやト書きも指示通り書き換える。というか、構成に関しても言われた通りに変更する心構えでいた。
ただ、変更によって矛盾が生じたり、謎が謎のまま終わったり、トラブル解決までの動線に不要なパーツが加わったりしたので反論するに至った。
その部分に関しては数学やんと思ったからだ。
ストーリーの骨格作りはパズルに似ている。パズルの組み立てに必要なのは、お笑いIQでも芝居経験でもなく、論理的思考力やんと思ったから反論した。
しかし、結果は虚しく...
河本の乱(2023年)は失敗に終わった。
芸歴何十年という武器の破壊力は凄まじかった。
座長の頭の中は『オモロい/オモロくない』と『論理にかなっているか否か』がゴチャ混ぜになっていた。
『お笑い的に正解=論理的にも正しい』という考え方だった。
無念。
爽やかな笑顔で構成変更に快諾しつつ、「因数分解もできへんのかワレ」と心の中でツイートした。
帰り道、脳内に通知音。
もう1人の自分が、さきほどのツイートにリプをくれた。
「FF外から失礼します。世の中って “何が正解かではなく、誰が正解か” ですよね」
即座にいいねを押した。
「1+1=2です」と下っ端が主張しても、決定権を持つ人間が「1+1=柴犬だ」と言えば、「A.🐕」になる。
コレが権威性ってやつか。
実は、権威性がいかにチートかを僕は知っていた。
僕には、高学歴の友達・知り合いが数人いる。超低学歴で普段からバカにされがちな僕は、無意識に高学歴者を実験台にしていたのだ。
「〇〇は△△だから□□だと思う」などと、僕が自分の考えを披露すると、高学歴の人は生返事をしたり嘲笑したり否定したりする傾向にある。
だが、「イーロン・マスクが言うとってんけど」「村上春樹のエッセイに書いとってんけど」などの権威性を枕に置き、出典を偽った上で僕の考えを述べると、反応が180°変わるのだ。
逆に、あたかも僕の考えであるかのような話し方で偉人の思想を話してみると、高学歴者はバカにする傾向にある。
難関試験を突破する類い稀な頭脳をもってしても、権威性の前ではCPUがバグを起こしてしまう。
世の中は “何が正解かではなく、誰が正解か” だ。
この実験をするたび、プラセボ効果って本当にあるんだなあと思う。同時に、ワシどんだけ性格ゆがんどんねんと思う。
※僕の実験はサンプルサイズが小さすぎるため、高学歴者すべてが出典によって態度を変えると言っているわけではありません。むしろ、高学歴で礼儀正しくて傲慢じゃない人には尊敬の念しかありません。
というわけで、自分の意見に説得力をもたせるには権威性を高める必要があると分かった。
ならば脚本家として出世するしかない。
映画・ドラマ・演劇などの決定権は、監督または座長にある。どれだけ出世しても脚本家に100%の権威が付与されることはない。
ただ、地位が上がれば、少なくとも今よりは仕事がしやすくなるはずだ。
脚本家として出世する道は、コンクール応募・劇団創設・ドラマYouTube開設などが考えられる。劇団やYouTubeとなると、運営・編集といった作業も発生する。
今の仕事と並行しながら現実的に続けられるのは、コンクール受賞を狙う道だろう。
コンクールはシナリオ学校の生徒時代に3回応募した。1回目は倍率10倍のTV局の一次選考を突破。2回目は某シナリオスクール主催のコンクールで最終選考目前まで行き、3回目は小さな映画祭だが入選した。
吉本興業のお笑い養成所時代には、600人もの生徒がいる中でトップ5組に入った。卒業後には劇場のレギュラーメンバーとして活動したこともある。
イケすかねえ野郎だぜと思われないために普段は謙遜しているが、僕は自信に満ち溢れている。自分のことを天才だと思っている。
だが、結局これまでの人生において、脚本のコンクールで受賞することも、芸人として売れたこともない。
すべては運が悪かったのだ。
“事業が成功するか否かは運次第” という統計データもあるらしい。
僕は悲劇のアンラッキーボーイなのだ。
しょうがない。
しょうがない。
脳内で通知音。
さきほどリプをくれたもう1人の自分からDMが届いた。
「必死こいて言い訳する姿が惨めで愚かで情けなくて吐きそうです」
身体中が怒りと憎しみで充満した。だが、感情に任せて返信したり即ブロックしたりすれば、若年性老害として拡散されそうなのでグッとこらえた。
なんとか心を落ち着け、ふと自らの過去を振り返ってみた。
お笑い養成所時代。トップ5組の中には、現在売れまくっている同期も1人いた。彼は後にM-1決勝へ進出し、TVや舞台で大忙しとなる。だが、養成所の時点では、僕と彼の実力は大差ないと考えてもおかしくないはずだ。
それなのに、なぜここまで差がついてしまったのか?
お笑い養成所を卒業後、僕とその同期は芸歴5年目で劇場のレギュラーメンバーに昇格した。劇場メンバーは実力ごとにランク分けされている。ピラミッドの頂点には、僕が芸人になる前からTVで見てきたスター軍団が君臨する。
日によっては、スターと同じ土俵で勝負しなければならないときもある。極度の緊張で普段の力が出せていないのか、単純におもしろくないのか、その両方なのかは分からないが、鉄板だったはずの勝負ネタが全くウケない。
5分間、延々と無表情なお客さんの視線が焼け付くように痛い。息を吸い込んでも声が出ない。全身が痺れて視界が霞む。これまでの人生すべてを否定されたような気になる。ネタを終えて袖に帰ると、ペットボトルのフタを開ける力も残っていない。
一方、スターは劇場が割れそうになるほど爆発的な笑いをとる。
トラウマレベルの恐怖と屈辱を植え付けられ、己は穏やかな内海でしか泳ぐことを許されない雑魚なのだと思い知らされる。
戦いに敗れるたび、自分と同等以下の芸人と傷を舐め合った。弱小コミュニティで過去の勲章を見せびらかし続けている方が心地よい。周りからも一目置かれて誇らしかった。
だが、同期の彼は、スター軍団に負けても跳ね返されても、ひたすら実直に挑み続けた。毎日狂ったように自己研鑽に努め、後に革命を起こした。地道に鍛錬して敵を倒すRPGの勇者そのものだった。
時化の中で溺れながらもがき続ける同期を横目に、僕は凪いだ海でのんびりプカプカ浮いていた。大海に出なければ敵なし。自信満々でいられて精神衛生を保てる。自分を天才と思い続けられる。
もちろん舞台には出るし、ほぼ毎日ネタ作りもした。絶対に這い上がってやるという気持ちで取り組んでいた。だが、怪物みたいなスターに勝てるわけないやん、と心の奥底では諦めていたのだと思う。
夢に向かって必死に努力する姿を演じて、自分を騙していたのだ。
現役時代、僕は一度たりとも自分が売れた姿をイメージできなかった。
売れていった同期と僕の違いは、心を幹からボキッと折られ、わずかな希望の灯にションベンをかけられても尚、己を信じ続けられたか否かにあると思う。
気付いた頃には横並びだったはずの同期が茶の間の人気者となっていた。僕は依然プロとセミプロの間を行き来していた。
引退から5年以上経つ今でも、TVで活躍する同期の姿を見ると、嬉しさと同時に惨めさが押し寄せてくる。「〇〇くん出てるで!」と家族からLINEが来ると番組をチェックする。大笑いしながら死にたくなる。
芸人人生の終盤あたりから、常に25%ぐらいの余力を残して取り組むクセがついた。「俺は本気でやればいつでも成功するんだぜ」と、負けたときに深くエグられないように防護ネットを張って生きてきた。
脚本のコンクール応募を途中でやめたのも、心が折れる前に対策を講じたからだ。脚本学校を卒業後、人生4回目の応募では一次審査すら突破できなかった。生徒時代の結果は、まぐれではないかという現実を目の当たりにしたくなくて、負けきる前にやめた。
そうやって自分をごまかし続けてきたわけだが、今回の脚本制作は久しぶりに100%ファイトした。かけられるだけの時間をかけて全力で書いた。
インディアンスの田渕くんのおかけだ。
田渕くんは、お笑い養成所の同期(トップ5組にいた人物とは異なる)。彼は、昔から僕のことをベタ褒めしてくれる。毎回とても嬉しい。心地よい。精神衛生が保たれる。
春先、田渕くんと久しぶりに酒を呑んだ。今回の脚本を書き始める少し前だった。初めて脚本の仕事がもらえた旨を報告すると、自分のことのように喜び「そのうち、かわもっちゃん(=僕)と一緒に仕事できたらええなあ!」と言ってくれた。
「でも正直、映像の脚本しか書いたことないし......オモロいのできるか分からんけど」と、僕は不安を漏らした。
「大丈夫。かわもっちゃんに足りへんのは度胸だけ」と返された。
田渕くんは、お見通しだった。
鬼のようにプライドが高いくせに極めて打たれ弱い僕の人間性も、やる前から予防線を張って傷を最小限に抑えようとする姑息な手口も、全て見抜かれていた。
急所を突き刺されて致命傷を負った。田渕くんからは基本的に褒められた記憶しかなかったため、その分ダメージが大きかった。
でも、不思議と心の中のモヤは消え、今まで霞んでいた視界がクリアになった。
身体中に鳥肌が立つほど魂が震えた。
田渕くんと別れたあとの帰り道、もう1人の自分にDMを返した。
「惨めな自分と向き合わなければ一生このままだと思うので頑張ってみます」
コンビニでビールでも買って呑みながら帰るかと思ったが、今1人で酒を呑むと感情が溢れ出して泣いてしまう。加えて、かなり泥酔状態だったということもあり、酒はやめて自販機でコーヒーを買うことにした。
でも本当は分かっていた。コーヒーでも絶対に泣いてしまうことを。それほどに心の中がエモーショナルで満たされていた。
チャリン。
ピッ。
ガコン。
ナタデココやないかい。
酔っていたせいでボタンを間違えたらしい。
なんでなん?
開く気満々だった涙腺が全部閉じた。
近くにカップルがいたので雅やかに飲んだが、脳内ではナタデとココを1粒1粒取り出して叩き付け、絶叫し、アスファルトに寝転んで横回転でゴロゴロゴロとローリングし、カップルの女性の頭皮を猫に見立てて吸うてやったった。
頑張ろうと誓った矢先に出鼻を挫かれたが、翌朝から100%ファイトした。結果、自分的には納得のいく状態で初稿を提出できた。
最終的に構成はガラッと変わって落ち込んだが、自分を信じて向き合い続けるという意志は変わらなかった。
序盤で書いたが、座長の人間性が大好きで大ファンだ。なおかつ無名の脚本家が、舞台でお客さんから生のフィードバックを得られる仕事をいただけるなんて、この上なくありがたい。
だから、座長から継続でいただいた演劇の脚本は今後も全力で取り組みたいと思う。一方で権威性を高めるため、コンクールにも挑戦する。両輪を回しながら、腐らず怖がらず進んでいく。
これを機に、人生の使い方を考えなおして前向きに取り組んでみようと思う。
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