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深い愛の血

 わたしの母は、愛が深い。
 わたしのこれまでの母とのかかわりを振り返ってみても、愛するがゆえに「どうして伝わらないんだ」と苦しんでいたように映る。
 母は、子供たちがどんなに世間からずれても、最後にはずっと味方でくれる大人だった。
 最初はほとんどひとりで子供たちを育て、愛するひとをうしなってもとにかく子供たちと生き抜くことを頑張り、内的な愛情の枯渇と外的な愛情の放出という混沌の奥深くで自分の愛と子供たちの世界の境界線を弁えていた。
 子供たちの父親はわたしが生まれてまもなく母と離婚し他人と再婚したが、母は子供たちと父親が会うことを許していたし、そもそも自分の存在は「許す/許さない」の範疇には無いのだ、というひとである。自分にとっては別れた旦那、それでも子供たちにとっては無二の父親である。自分の感情やら大人の事情やらは関係なく、彼らは親子なのだ。自分と同じく。それを阻害する理由はない。今思っても、その考え方は格好良かったし、子供だった時は自慢だった。(そうそうできる話ではないので心の中だけであったが。)
 そんな愛情深く己を貫く母は、一方で自由であり子供たちと折り合いが悪いこともしばしばであった。彼女の生き様を理解するには、子供たちは幼過ぎたし、または母も純粋過ぎたのである。勿論彼女が、子供たちが自立していない段階では甲斐甲斐しく生活を支え潤してくれたことは言うまでもないが、一方で自分のやりたいことへの強い勘や気持ち、愛するひとを見つけることと愛するひとと共にいるのが当たり前であること、環境の変化に強いこと、どんな状況でも楽しむこと、美味しいと思うものを食べること、楽しいことをすること……これら彼女が生きる上で必要な物事やそれに向ける彼女の気持ちが、どうしても滲み出てしまうのだった。きっと彼女の生き方は一貫して変わらないのだろう。わたしの誕生が5年早ければ、もっと彼女の人生の情熱的な時間は長かったかもしれない。とも思うが、今でも彼女は十分楽しそうなので、あまり気にしていない。

 そんな、愛情深く、自由で、素晴らしいわたしの母の血は、間違いなくわたしにも流れているのだ。それを感じ取ったのは、母の次に愛するひとを見つけた時と、子供たちに関わる仕事をした時だ。彼らのためなら、どんなことだってするしどんな時でも守る。彼らひとりひとりを理解しようとすることを諦めないし、ずっと傍に居る。そういう強い感情が湧いた。

 もう少し幼かった時のわたしは、我儘で、その割に気難しく、頑固で、気分屋だった。何よりも母の愛情を欲し、母の視線を奪うためにはどんな手段も辞さない、という気概溢れる幼児だったと思う。その気持ちは、やんぬるかな、母の自由奔放な気質と衝突してしまい、10代でとんでもなく拗れ、20代で母の落ち着きと相まって柔らかく発酵し、喉を通る時の棘は丸くなり、今に至る。

 わたしは母に看取られたい。

 10代も前半のうら若い頃に抱いた初恋のような呪怨のような思いは、今でも沈殿し仄かに香っているが、前ほど刺々しくはない。誰しも、歳と共に丸くなるものだ。河原の石のように。

 母はわたしが10代の頃には「少女のよう」という感想を抱くほどのひとだったが、その愛情は、少女の恋というには深すぎて、大きな愛というには濃い、空気にしてみれば濃霧のようで、噎せ返るほどの強い愛だ。
 願いというには卑屈で、手放しというには心配性で、過干渉というには離れていて、幼いわたしからしたら「ひとりの人間として扱ってくれているが気持ちが密着状態」だった。それも、今となっては程よく距離が開き、少しの寂しさと解放感、連絡すればいつでも笑いかけてくれる安心感となっている。

 わたしがこれまで最も愛したひとは間違いなく母であり、彼女とともに歩み生き死ぬことができないことにやんわりと気づいた時にはひっそりと絶望したが、母以外でともに生きていくなら、と選んでいるひとがいる。そのひとへのわたしの愛は、本当に母を彷彿とさせる愛情で、強く、濃く、それでいて柔らかい。相手が自分と同一ではないと解っていながらもくどいほど心配性で、物凄く甘えたがりのくせに相手の様子を窺っている。

 まだまだ幼く覚束無いわたしの愛し方だが、これがわたしの中に流れる深い愛の血によるものなら、きっと大丈夫だろうと、勝手に安心している。


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 今日は母について話したが、父もとんでもなく愛が深いひとなので、気が向いたら話すと思う。




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