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心配する=愛 ではない


私の両親は、いつも私のことを心配していました。今思うと、まさに過干渉の中でも過干渉でした。その割には早く自立するよう、色々なことにかなり幼い頃から挑戦させられ続けてきました。

そして、今なら分かるんです。
心配しているの、これはどうなったの?あれはどうなったの?大丈夫なの?そんなんじゃ、うまくいかないよ、できないよ?もっと〇〇しなさい。
といった、心配は、愛の証ではなかったと。

親の心配は、どこまでも親自身のため。

そして親の本当の役目は、子供を安心させてあげること。と初めて知った時は、なんだか目から鱗でした。

私はその「愛」と思っていたパターンを見て育ったため、自己犠牲をして、相手を心配し、世話を焼くことが愛と信じ込んでいました。
それを完全に恋愛関係の相手にもしていたのでした。
でも心のどこかでは、本能のどこかでは、これって本当に愛なのか?ってモヤモヤしている自分もいたように思います。

心配する度に、相手は次第に表情が曇ったりしていき、私は余計に、自分の何がいけないんだろう、と不安になり、さらに間違った愛のパターンを加速させていきました。

でもあれから数年経った今、親からも距離を置き、心理学や毒親などについて学び、人生経験を積んだあとだから分かります。
あの行為は真逆のことだったこと。愛するとは、相手に興味を持ちながらも、尊重し、信じ、見守り、辛い時に寄り添えることだと。

愛は目に見えないけど、本当にその人のことを想っていたら、自分の幸せを保ちながら、相手の幸せを願い、何をしたら相手が自信をもって、世の中を渡り歩けるかを想像して接することなのかな、なんて思う今日この頃です。


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