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足を向けて跳ねられない2023/11/26

精神=5 身体=5

文章上のこころの捉え方は千差万別だ。その時の気分にもよるし、強調したい部分を表すとすればその点が色濃く表れる。しかし実際に出会った事柄はその記述よりもはるかに穏やかで活気に満ちているかもしれない。さ、私も私の色眼鏡をかけて見てきたので書いていこう。

少し危ないよと言われている西成に行ってきた。私はアウトロー感を味わうために向かったのだが着いてみて拍子抜けした。人が住んでるんだから当然なんだけれど、今まで住んできた街よりも凄い人間的だと思った。では何を見てそう思ったか。もちろん書いていこう。それは次の通りだ。

まずは、声。休憩所にて将棋に向かい合う人たちや何気なく置いてある椅子にお酒片手に朗らかに語り合う声。宗教的施設の向かいにあるお店の人と、明るく呼び合うあの声。そして時たま聞こえる怒声。ここはゆるやかなルールはあるけれども、少なくとも今の人間よりは人生をしているなとそれを聞いて思ったのだ。

次に、看板。建前だけの〇〇しましょうやらルールを守りましょうだの能書きだけは綺麗な文字列の横に「私たちにも人生がある」と書かれていたところ。看板に書かれていた物よりも美しく感じた。そこには感情があった。〇〇禁止と書かれているところにはそれが行われていた跡があるし、現在進行形で違反している。また、ちょっと猥雑な名前のお店やジョークめいたお店がとても遊び心というか、面白く生きたいなあみたいな人間味があった。

最後は、自分自身。街を歩きながら「私の眼にはどこの誰よりも生きているように見える」と言えるような感性が湧きだしたことだ。引っ越しの多い私ではあったが、どこの土地を見ても「人、あるなあ」くらいの感情しか湧かなかった。人々は雑踏にしか見えないし、汚い所はどんどん是正されていくので、なんだか鋳型にはめたような面白みのないものが規律良く歩いているなあどっかで見たことあるなあみたいな感じにしか思えなかった。それが「人が生きているぞ」と私の目から脳に、脳から心に震わされた。それを感じた自分自身に気付きを得たのだ。

以上、3つ感じた物で私はこの街は生きていると判断した。いささか書いているにしても明るい面ばっかり書いてしまっているなと自覚もしているし、私の生まれが良かったとか今までの人生が甘かったとか、本ばっかりで人と関わってきていないからそうなのだとか言われるかもしれないが、それが知ったことか。
私はそう感じた。意見があるならば足を運んで感じてからにしてほしい。そして私に聞かせてほしい。私はこう感じたのであなたとは違いますと。そう伝えられれば私は納得して意見を取り入れまた違う色眼鏡でその街へ再び向かうだろう。そうしてまた違う思考と違うアンテナに切り替えながら再び書き綴ると思う。そして同意出来た部分と、やっぱり私はこうだという意見を文章でぶつけると思う。お互い納得してもしなくっても良い。ただ、こうして一つのメガネを少し貸してもらった相手ならば、私は友達になりたいなと思う。

さて、今日はこれまで。
またこんど!

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