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伊予柑日記:身体と感情

(※これは2021年2月のログです)

エデン難波で「エデン京都はアスペルガー傾向のやつが多い」という話題と「自分は怒りの感情がほとんどない。博愛である」という話題があわさって、発達障害と健康の話になりました。そこで自分の理解している感情と身体の話を書きます。この話題はかなりセンシティブなので、あくまで「伊予柑の唱える説」としてご理解ください。

感情と身体

日々いろんな感情に悩まされているとおもいます。感情とはなにか、というのは認知心理学で色々な議論があるのですが、1つの大きな立場が「身体の快/不快に名前を付けたものである」という説です。

身体は自分をまもるために、リスクやメリットに対して正直な反応を返します。カツカレーはカロリーが沢山あって美味しいです。速攻で血糖値を上げて、たっぷりのカロリーで満足感がある。だから「好き」になっていく。思春期に異性に近づくと、性的な身体的興奮が起きます。10m離れているよりも1m、1mより10cm近いほうが身体が活性化します。身体距離が近づくことにリスクがなければその反応を「好き」と名付けやすいでしょう。

ゴミ捨て場は不潔で不快ですよね。ゴミ捨て場から出てくる「ゴキブリ」もまた不潔の象徴です。だからゴキブリは「嫌い」。犬に噛まれた、牡蠣にあたったなどの強い身体ショックがあると「恐い、嫌い」になりがちです。

納豆は面白くて、根本的には「変な匂いをする糸ひいてる腐った豆」なので「不潔で危険」です。だから外国人から見たら「嫌い」で当然なんですが、日本人は「安全だ」ということを繰り返し認知しているので「好き」になります。逆の立場だとわかりやすくて「臭豆腐」「虫の唐揚げ」「噛み酒」みたいなものは、日本人はなかなかキツイです。安全だとおもえないからです。このように身体の反応を脳が大雑把に知覚するためのシステムが感情だといわれています。

感情が苦手なひとたち

発達障害(ASDやADHD、HSP)の人達は「身体反応の処理が苦手」なところがあります。

たとえば、ADHD注意欠陥性多動性障害のひとは脳の快楽物質の接続が弱くて「刺激」への反応が一般的ではありません。強い刺激でないと反応できないが刺激がくると夢中になってしまうところがあります。なので「危険な挑戦」「辛い食べ物」「サウナと水風呂」のような強い身体刺激を好む傾向があります。ホリエモンはビジネスででっかい勝負をし、トライアスロンを走り、日々の炎上を楽しんでいます。典型的な刺激ジャンキーだといえるでしょう。

ASD(アスペルガー傾向)のひとは身体反応が鈍いことが多いようです。お腹が好いてることに気づけない、痛みへの知覚が低い、他人の身体状態を察したりあわせることが苦手。共感が苦手というのも、誰かが愉快に笑っているときつられて愉快になることができない……つまり「他人の身体状態を理解し、同じ状態にもっていくことが苦手」と表現できます。

そしてHSPのひとは、「特定の刺激にメッチャ過敏」になってしまいます。雑音、人の声、布の感覚などなど、小さな刺激を強く感じてしまう。人ごみを歩くだけで疲れてしまう人をよく見ます。

ざっくとしたこの3つの「身体刺激への反応」というのは、人によって入り交じっています。おそらく「全部が平均値!」なんてひとはめずらしくて、ポケモンのパラメーターのように「特定のものは過敏で、特定のものは鈍い」のでしょう。自分自身もそうです。そして、このパラメーターの偏りが大きいクラスタにザックリと病名がつけられているというかんじです。

感情=身体としたときに

「怒りを露わにしてはいけない」
「他人を嫌いになってはいけない」
という教育を受けたり、倫理観をもっているひとっているんじゃないでしょうか。感情とは身体反応に名前を付けたものという上記の説に基づいて解釈すると、「怒りを露わにしない」というのは2つの戦略をとることができます。

1つ目は「納豆」のように「これは安全だから身体が拒絶反応を起こさない」というものです。外人に納豆を勧めることを思い描いていただきたいのですが、まず勧める人が食べたりして安全性を示しながら、美味しいやつを清潔な環境ですすめる必要がありますよね。「ゴキブリ」を好きになるにも、虫博士がカブトムシとの違いを説明しながら、清潔なゴキブリもいるということを学習していくことになるでしょう。嫌いというのは身体が生き延びるための反応なので、時間をかけてならす必要があります。

2つ目の戦略は「身体反応を無視する」ことです。我慢する。身体は「不快だ!」と叫んでいるけれど、脳がそれに名前を付けず、感情としてはそれを却下するというものです。「不快なのに逃れられない」呪いの状態です。身体反応を無視していると、「健康」を消費します。その結果、破滅してしまう。

残念ながら現状では2つ目の「呪われ」戦略をとっているひとが多いでしょう。そして、「身体反応のパラメーターの偏り」があるひとは、「平均値」を目指して身体反応にフタをすることが多いです。過敏過ぎるのを無理矢理抑えたり、鈍感過ぎるのをほっておいて不快が溜まってしまったり。そして破滅します。

あきらめるとは

このスラムでは「あきらめ」ということが尊ばれています。しかし、少し誤解があるようです。「身体の不快」にたいして「無視する」戦略をとることを「あきらめる」と呼んではいけません。ゴキブリが顔に近づけられてウッとするのを我慢するのは、全然あきらめではないです。むしろ「嫌いなものは嫌いである」と理解することがあきらめです。自分自身の身体反応をうけとめ、感情にフタをしない。

もちろん、嫌いだからといって口に出したり攻撃するのはダメです。「ああ、世間ではワンちゃんはハッピーの象徴だが俺は犬が嫌いだあああ!!!足がすくむ! 絶対に近づきたくない! 犬がおぞましい!」と自分で認めるというのがあきらめです。

このとき、発達障害傾向、つまり「身体反応のパラメーターが平均と違うひと」は、自分自身のパラメーターを理解するのが大変です。身体に向かいあうことをサボってきた人が多いので、自分が何が快/不快なのかわかりません。よくわからないまま、快/不快にブンまわされて元気に生きて、そして破滅するのをよく見ます。

あきらめるとは、「偏った自分の身体反応のパラメーター」を理解し、その反応の傾向と対策をすることです。大学入試で数学と物理が苦手なら、英語と小論文だけで入れる大学を目指すのとおなじです。「数学が12点だが全科目型の大学にいくために数学も勉強するぜ!」といって実行できる健康があるひとはいいのですが、まあこのスラムに来てる時点でそうじゃないでしょう。「自分の偏ったパラメーターを平均値に近づける」のはかなり大変です。そ一晩でゴキブリと仲良くなることはできない。苦手な科目はあきらめよう。靴下をあきらめよう。

まとめ

・感情は「身体反応に名前をつけたもの」という説がある。
・発達障害と呼ばれているものは「身体反応が偏っている人」のクラスタともいえる。
・身体反応を無視すると健康を損なって破滅する。感情にフタするのよくない。
・自分の感情を認める、つまり「身体反応のパラメーターの偏り」を理解して、適切にあきらめよう。

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