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無意識のバイアスIII 抜け出すための道はあるか

無意識のバイアス、最後まで読み終わりました。なかなか厳しい内容でした。バイアスから抜ける方法は、あるにはあるけど、簡単じゃないよね、みたいな感じでした。過去のまとめは以下を参照。

第II部では、いかに黒人差別が根付いているかの実例がこれでもか、と掲げられていましたが、第III部になってもその傾向は変わりませんでした。ただ、少しずつ改善事例も出てきたかな、という程度です。

自動車の右側通行

バイアスの顕著な例として、外国で自動車を運転するケースが描かれていました。日本では左側通行が一般的なので、日本人が海外で右側通行の運転をすると、すごく混乱すると聞きます。右を走っていると自分が逆走しているような気分になるし、交差点から出るときもまずは右側を確認する癖が抜けなかったりします。

バイアスの少ない子供は、交差点の左から車が来てて危ないよ、と気付いたけれど、運転していた大人は無意識のバイアスで左側の車に注意を向けず、あやうく追突事故になるところだった、といったことが起こります。

テクノロジーとバイアス

昔と比べて様々な技術が発達した現代では、テクノロジーによって、昔よりも公平に、平等に判断できるようになったと考えがちです。でも、それは使う側次第で、無意識のうちにバイアスを強化することもあります。

アメリカの家庭では、自宅に監視カメラを設置してセキュリティが向上し、不審者に怯えなくて済むようになりました。しかし自宅のインターフォンを黒人の少年が押したのを見たとき、白人の家主は驚いてショットガンを持ち出して発砲した、という事件があったそうです。監視カメラというテクノロジーは、ただ家主のバイアスを助長させただけでした。

潜在化する偏見

そんなアメリカでも、やはり一般的には差別はよくない、と考えられているので、昔のように「黒人お断り」のような露骨な差別はなくなりました。しかし、結局白人たちは人種以外の言い訳を考えて、より巧妙に黒人を締め出そうとするだけでした。

日本でも、たとえば障害者に対する侮蔑的な言葉を色々と禁止していますが、いくら禁止されたところで新しい隠語が生み出されて、言葉を変えて侮蔑は続いていきます。結局のところ、心が変わらない限り差別はなくならないのです。

交流を増やせば差別は消えるか?

バイアスは一般的に無知の産物と考えられています。人々を互いに交流させれば、誰もが大まかなステレオタイプを捨て、個々の名前、顔、事実に置き換えることができ、敵対的な態度を和らげることができると考えられてきました。

こうした考えのもと、アメリカでは学校の人種統合が進められましたが、結果的には、ただ同じ教室に座っているだけでは偏見は全くなくならなかったそうです。黒人は頭が悪いと思っていたけど、予想通り頭が悪かったようだ、と偏見を追認するような形で助長されてしまうのです。

お互いが対等の立場に立つとき

偏見がなくなるのは、同等の地位であること、個人的な交流であること、権力者によって認められていること、などさまざまな条件が必要だそうです。

田舎の学校に通っている黒人と白人の生徒たちが、一緒に修学旅行でニューヨークへ行き、全員が都会のニューヨーカーから無視されたことをきっかけに、はじめて黒人と白人の生徒たちが仲間となって団結したというエピソードがありました。

都会人という共通の敵に直面したとき、団結して生き残りたいという衝動によって、それまでのバイアスは解消され、お互いを仲間として認識できるようになったそうです。

偏見から目をそらさないこと

アメリカの白人が人種問題に対してとる一般的なアプローチは「カラーブラインド戦略」、すなわち肌の色を見ないようにすること。肌の色について考えないようにすること、だそうです。人種について考えなければ、バイアスにかかることはないであろう、という理論です。

これは一見正しいように感じますが、結果的には無意識のバイアスを助長させ、差別を発見する能力を鈍らせる効果しかないことが分かりました。

「反撃をやめた時こそ、偏見が勝つ時だ」

これは、いつまでも戦争していると物価が上がって迷惑だし、はやく戦争が終わって平和になってほしいな、と思ってウクライナではなくロシアに加担してしまうことと似ていますね(飛躍した論理)。嫌なことから目をそらすと、結果的に武力による弾圧が正当化され、世界はより不安定になってしまう、そのことにも気付けなくなってしまうのです。

本当のブラインド戦略

そう言う割に、現実的なバイアス撲滅の解決策として、本書では「肌の色を見ない」という手法が紹介されていました。

たとえばオーケストラ奏者のオーディションでは、一般に女性の合格率が著しく低く、オーケストラといえば男性のものだ、といった偏見が根強くあるそうです。そこでオーディションの審査をカーテン越しに行い、奏者が全く見えない状態で腕前だけで合否を判断した結果、女性の合格者が飛躍的に増えたそうです。

ただ、そうして雇われた女性奏者が実際に舞台で演奏したとき、観客はどう感じるでしょう。観客も、結局はバイアスを持っていて、女性が弾いているのかと感じて、そのオーケストラの魅力が低減したと感じてしまったら、果たして何が正しいのか、分からなくなってきます。観客が「男性の弾くオーケストラを聞きたい」と感じるのは偏見なのか? 大好きな女性アイドルグループの歌を聞きたいと思うのも偏見なのか? そりゃ趣味嗜好は偏見の塊ですけど、どこまでを許容して、どこからが差別なのか、その境界はとても曖昧です。

企業の雇用においても、履歴書に名前の欄があると、名前の雰囲気から黒人か白人か分かってしまい、黒人っぽい名前だと合格率が落ちてしまう傾向があるそうです。そこで名前をなくして経歴だけで審査すると、黒人の合格率が上がるのだそうです。

しかし、経歴の中に「黒人学生協会の会長を務めた」などと書いてあると、黒人だとバレてしまいます。だから経歴の中からも黒人と分かりそうな活動は除き、登山やスノーボードなど白人が好きそうな趣味を入れておくことで合格率を上げる「履歴書の白人化」が行われているそうです。

そうやって頑張って内定を勝ち取ったとしても、結局職場では白人から冷たい対応を取られたりします。結局、肌の色を見なければバイアスを一時的に解消できるけれど、それがその後の活動にも全く影響を及ぼさないわけではない、ということが、ブラインド戦略の難しさを物語っていると思います。

言い訳に使われる研修

偏見をなくすためには、偏見がどうして生じるかなどの基礎的な知識を身につけることも重要です。そこで、企業では社員研修としてバイアスについて学ばせるところが増えています。

しかし、そうやって偏見に立ち向かうことは「企業の社会的責任」などと謳っているところは、むしろ無責任な行動をとる可能性が高いことが判明しました。責任ある行動をしたことで無謀な行動をする権利が与えられたとでもいうかのように。ブラック企業がやたら人財を大切にして夢の自己実現を訴えるような感じでしょうか。

結論:バイアスを乗り越える方法とは

コミュニケーションを取り合い、お互いを知り、バイアスや拒絶に繋がる根本的な文化を変えるために力を尽くしながら、それに伴う不快感を乗り越えていくしかないのである。

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そう、バイアスを乗り越えるというのは、多様性を認めること。自分にとって不快なものと、うまく付き合っていくことが必須なんです。バイアスに満ちた者同士の同質的な社会の方が絶対に快適ですからね。ダイバーシティ&インクルージョンで自分にとって都合のいい幸せな多様性社会が訪れるなんて思っちゃいけないんです。ダイバーシティ社会に不協和をもたらす奴が悪い、なんて理論は結局多数派によるバイアスの押し付けでしかないんです。だから、それはとても難しいことなんです。

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