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経験と教育:衝動vs目的

とりあえず最後まで読みました。後半4~8章をまとめます。

前回、経験には連続性と相互作用が大事だ、という話をしました。今回は、衝動や欲望に任せた経験はダメで、将来を見据えた目的を持つことが大事だ、という話をします。

思考することは、このようにして即時的に行動することを延期することになるが、同時に観察と記憶の結合を通じて、衝動の内的抑制に効果を挙げているのである。このような結合こそ、反省するということの精髄である。
(中略)衝動のまにまに左右されて、その行動に知的判断が入ってこないのである。このようなやり方で行動を統制されている人は、せいぜいのところ、ただ自由の幻想をもっているにすぎなく、実際のところ、そのような人は、自分ではどうすることもできない勢力に支配され導かれていることになるのである。

P70

ちょっと分かりにくいですが、この辺りに本書で言いたいことのエッセンスが詰まっていると思いました。

詰め込み教育は個人の経験を無視しているからよくないのは確かだけど、では自由に経験だけさせていれば学びが深まるかというとそんなことない、というのが趣旨です。

ただ欲望のままにやりたいことをやっても何も学べません。自由な経験を尊重した子供たちは、たいてい礼節を欠いて言うことを聞かず、やりたいことに夢中になって遊んでいるだけ、みたいになりがちです。衝動に左右されて知的判断が入っていないのだそうです。

こうした自由な経験を学習に昇華させるためには、将来を見据えて考えるという工程が必要です。

目的とは目論まれたもの、つまり終局への見通しである。すなわち、目的には、衝動にはたらきかけることから生じる結果を見通すことが含意されている。結果の見通しには、知性の作用が含まれる。知性の作用には、第一に、客観的条件と環境とを観察することが求められる。

P71

目的が初源的な衝動や欲望と異なるのは、最初の衝動や欲望がある一定の確かな方法で観察された条件のもとで行動に移されていくのであるが、その行動の結果を見通しての計画や方法に転換されるからである。

P74

学習の目的は将来にあって、そのための直接の教材は現在の経験にあるという健全な原理は、現在の経験が、いわば後方にさかのぼり伸びている程度に応じてのみ、有効にはたらくことができるのである。経験はまた、それが過去に拡大されていく程度だけしか、将来に拡大することができないのである。

P84

こうした手ほどきをしてくれる先生がとても大事になります。結局、経験を重視する進歩主義教育でも、ただ子供たちを好きに遊ばせるのではなく、そこから先を見据えて考えるよう促すことが大事になります。また、それが子供たち一人ひとりに合わせていかないといけないのですごく大変で、結局昔ながらの詰め込み教育のように効率よく教えることなんてできないんじゃないの? という筆者の思いが見え隠れします。

知的活動を強調することに代わって、活動は目的であるとして活動を過度に強調することは、自由が衝動や欲望の即時的実行と同一視されてしまうことになる。このような同一視は、衝動が目的と混同されることになり、正当化されてしまう。

P75

経験をこれまでとは異なったものへと導く原理があって、生徒たちがすでに慣れている事物を、熟達したやり方でいとも気楽にやり遂げていることをよく確かめもしないで、何か新しい経験が生徒たちに与えられれば、それでその原理は適切に充足されるものと想定されるようでは、それは誤りというものである。

P81

結局、知識詰め込みも、経験重視も、どちらも欠点があって、どっちがいい悪いという次元の話ではないよね、もっと正しく教育とはどうあるべきかを考えないといけないよね、みたいなことを筆者は言っていたと思います。

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