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問い:People Poweredは強者が強者を囲い込むという話であって、弱者は弱者を育てる必要があるのではないか

多様性の画一化

人間はいっぱいいて多様なので、それぞれが自分の得意なことをやっていけば、お互いに足りないところをフォローしあって、うまいこと回る、という考え方があります。それはある意味正しいのですが、それは自分のコミュニティが人間社会全体に対して十分に小さいからこそ成り立つ構図だと思います。

何を言いたいかというと、十分に多様な人材を育てる環境がないと、いつかこうしたモデルが崩れるのではないかと思うのです。

生きるのが困難な時代においては、いろんな人が生き延びるための策を探しました。力を蓄える人もいれば、賢く農作物を育てる人もいれば、商人として商品物流を担う人もいました。それぞれが自分の生きる道を模索して、多様なスキルを磨いていきました。

しかし、現代社会は生きるだけなら困ることはほとんどありません。だいぶ豊かな社会になり、生活保障などの福利厚生も充実しています。無料で楽しめる娯楽もたくさんあり、難しい問題もAIが解決してくれるような時代がやってきています。そんな中で、多くの人間は探索をしなくなり、受動的になり、多様性が失われているような気がします。

自由意志と美

若者の自由意思に任せていると、食事が牛丼とラーメンばかりになってしまう、みたいな話がありました。あらゆる意志がレコメンドやランキングによって支配され、自分のやりたいこと、真善美でいうところの「美」が見えなくなって、AIよりも機械的なリアクションしかできない単細胞人間がどんどん増えています。

そうなると、コミュニティ作りにおいて適材適所に能力のある人が協力してまわしていく、というのが難しくなっていきます。人々の多様性が失われて、誰もが同じような能力しか持たなくなって、問題解決ができなくなってしまうのです。

幸いなことに、一人ひとりの真善美が画一化しているわけではありません。ただ必要性がなくてみんな自分の「美」が見えなくなっているだけなので、そこをうまく掘り出して伸ばしてやれば、まだまだ多様性は回復できる状況にあると思います。

ただ、問題はその「必要性を示すこと」がとても難しい、ということ。頑張らなくても生きていけるし、頑張っても自分が取るに足らない存在だということを思い知らされる、そういう世の中になっているからです。というのが前回の私の日記の論点でした。

目標と強制力

結局、ある程度の強制力をもって導くことが大事になります。個人の自由意思に任せるだけではうまくいかないところを、過去の人類の知恵に従って最適解を示していく。それが伝統的な教育に求められる力だと思います。

そして基礎的な知識に基づいた経験から、自分なりの発見をして興味を深めていく、くらがりチャレンジを通じて自分の美を確立していく、そうした教育課程をデザインしていかないといけないと思います。

小さなコミュニティが、十分な報酬(金銭であれ、やりがいであれ)を提示することによって優秀な人材を集めてうまくまわしていく、というのがPeople Poweredの考え方だと思いますが、そうした力のあるコミュニティ以外では、まず凡庸で没個性化した一般人を教育して個性を取り戻させる、その工程をしっかり設ける必要があるのではないかと思いました。

このような実践を繰り返すことが、人類の底力を引き上げることにもつながりますし、より多くの幸せをもたらしてくれるのではないかと私は思いました。

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