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蓄積なくして蕩尽なし

今日はバタイユの「呪われた部分」について、読んでないのに読んだふりしてnoteを書きます。本書では「蕩尽」について語られています。

蕩尽とは何か

蕩尽というのは、財産を湯水のように使い果たすこと。今まで蓄積してきたものを無に返すこと。非合理的で、非生産的で、もったいなくて、だからこそ美しいもの。

資本主義社会は、資本を無限に蓄積することを目的としてきました(マルクスの資本論より)。だから蕩尽なんて決して許されないことです。現代社会はなるべく無駄を省き効率的に蓄積するように進化してきました。そこで育った私たちも、そのような価値観が根強く植え付けられています。

だから、基本的の蕩尽なんてしようと思いませんし、できません。ちょっと多めに蓄積した余剰分を無駄遣いする程度が関の山です。今後の人生も顧みず、後先考えずに全てを投げうって使いつくすなんて……それこそ自殺くらいのものです。

無駄遣いとは何か

ここで一つ考えなければいけないのは「無駄」というのが非常に主観的な概念だということです。何を無駄と考えるかは、その人の価値観や置かれた状況、文脈に大きく左右されます。

だから、価値観の違う世界に行けば、たとえば毎日だらだら浜辺で寝て過ごすのが一番だと思う人たちからすると、毎日あくせく働いてお金を稼いで使いもせず老後のために貯めていくなんて無駄の極みだと思うかもしれません。稼いだ全財産を夢のマイホームにつぎ込むのも蕩尽と感じるかもしれません。でも我々の社会では、家を買うことを蕩尽だと思う人はいません。つまり無駄遣いというのは、価値観の違いであり、レアリティの問題なのかもしれません。

いまは資本主義的な価値観が主流なので、現代でも違う価値観で暮らしている人は、やることなすこと全て無駄に見えてきたりします。ミニマリストみたいに何でも捨ててしまうのはもったいない気がするし、そんな生き方しない方がいいよ、って思うかもしれません。でもそれはその人の価値観ですから、余計なお世話ですね。

そして、違う価値観の人は、ときに魅力的に映り、周囲の人を魅了します。影響力を持って、私もあんな風になりたい! と思う人も出てきます。レアリティが高いほど、貴重なものに思えるものです。

多様性理解のための無駄遣い

他人の無駄遣いについてとやかく言うのは価値観の違いですから、余計なお世話ですが、自分の無駄遣いはどうでしょう。自分の価値観にないお金の使い方をすると、もったいないことしたなぁと思ったりします。その瞬間はいいと思っても、後から振り返ると無駄だったなぁと反省することもあります。

そうした失敗した無駄遣いを、高い勉強代だった、ということもあります。そう、無駄遣いは、異なる価値観を学ぶ勉強なのです。そして、そこからきちんと新しい価値観を学ぶことができれば、決して無駄ではないはずです。

つまり、無駄遣いというのは自分の価値観の狭さからくるものであって、むしろ自分の視野を広げるためには積極的に無駄遣いをした方がいいのかもしれません。

全てをつぎ込める目的

「蕩尽」は「無駄なこと」に「全てをつぎこむ」の2つの要素から成ります。「無駄」の部分はだいぶ分かりましたが、「全てをつぎこむ」というのはどういうときでしょう。

自分の人生で、一番大切なもの。譲れないもの。これのためなら全てをつぎこんでもいいと思えるもの。そんな大層な目標とか夢を持っている人はどれくらいいるでしょう。少なくとも私にはありません。資本主義社会は、人々の夢を全て資本の蓄積に向くよう仕向けてきたので、そうやって教育された私には、自分の譲れない価値軸なんて思い浮かびません。

でも、世の中には「これが好き」「これのためなら何でもする」という大切なものを持っている人がいます。それが一般には理解されない趣味だったりすると、非常に無駄に見えて、蕩尽のように映ります。アイドルとかソシャゲの推しに全てをつぎこむのは、最近は意外と一般的なことのように思えてきたので、蕩尽度が減ってきたように思います。

そう考えると、一番メジャーで一般的な蕩尽先は「家族」「子ども」になるかなぁ、と思います。言われてみれば、私も家族のためにお金も時間も多くのものを費やしています。ただ、それがあまりにも一般的過ぎて、誰も無駄だと感じないだけです。

蕩尽しているカリスマ

こうして考えると、世の中で蕩尽ができる人というのは、相当限られていることが分かります。世の中にない自分だけの価値観を持ち、そしてそこに全てを投じたいと思えるほどの情熱があり、それを実際に実行する力がある。

それは、とても一般人である私たちにはできないことであり、だからこそ強いカリスマ性を持って見えるのではないでしょうか。蕩尽している人は、その人の世界観を、美を、体現しているのです。だから美しく見えるのです。

(もしくは、単に無駄に見えるかもしれません。それはあなたの価値観次第です)

ごく普通の社会人として

わたしはごく普通の、どこにでもいる社会人です。普通の価値観で、普通の行動しかしないので、蕩尽とは縁がありません。

でも、わたしにはごく普通の、世界で一番大切な家族がいます。家族のために働き、家族のために過ごしています。それが私にとって美しいことなのです。カリスマ性はないかもしれないけれど、それが私の幸せなんだと思います。

カリスマ的蕩尽をしている人も、私も、主観においては同じはずです。大切なもののために、自分が蓄積したものを費やす。それだけです。周りからどう思われようと、主観的には同じなのです。

だから今日も私は家事をして、ゲームをするんです。そんなありふれた日常こそが、私の蕩尽なのです。

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