定本 想像の共同体
国民とは何か。私たちは何をもって共同体を作っているのか。そんな話が書かれているんだと思います。まずは1~4章を読んだので簡単なまとめです。
国民の定義
どんな国民でも、みずからを人類全体と同一に想像することはありません。必ずどこかに国境があって、自国と他国を分ける、限定的なものとして想像されます。
そして、国民というのは主権、すなわち最高かつ絶対的な権力を持つ、もっとも大きな共同体の枠組みとして想像されます。私は日本人である、というのが私の所属する最も大きな共同体になります。(私は人間である、人類みな兄弟、みたいな考えもありますが、あまり共同体として実態をもたないのが現実でしょう)
国内に不平等や搾取があるとしても、国民という枠組みは確かなものとして皆さんの中にも存在するでしょう。では、どうしてこのような強固な枠組みを、何億という人たちが共通して想像できるようになったのでしょうか。
その答えは、出版でした。
出版が生まれる前の共同体~宗教と聖書
16世紀に出版が普及するまで、想像の共同体の成立は「旅」に依存していたそうです。
そもそも「想像の共同体」とは何かと考えてみましょう。普通の共同体は、たとえば身近に住んでいる、同じ仕事をしている、など身体的な、時間的な共有から成り立っていると思います。同じ時間を一緒に過ごすほど、友達感は深まり、親友になっていきます。
想像の共同体というのは、そうした物理的な共有がないにも関わらず、同じ共同体だと認識できることです。私は、会ったことも話したこともない相手だって、同じ日本人として認識できます。これを可能にしていたのが「旅」なのだそうです。
宗教で聖書は古くから世界中に広まっていました。みんなが日曜日に礼拝するとか、同じ祈りの言葉を唱えるとか、そういう共通項はありました。でも中世の人たちにとって、結局は近所の教会に集まった人たちという共同体でしかありません。
しかし、全く知らない旅人が、自分たちと同じような儀礼をしていることを目撃すると、どうなるでしょう。遠い異国からやってきて、言葉も全く通じないのに、なぜか私と同じように「アーメン」と神に祈りを捧げる人がいる。これって実は同じ仲間なんじゃないか、と気付きます。これが想像の共同体です。
出版による時間・空間の超越
それまで方言だったり、時間とともに変化する言語によって、地域が違えば言葉が通じないというのはよくあることだったようです。だから口伝で語り継がれるような物語は、遠い地域でも同じものとは認識できなくなります。日本でもヨーロッパでも、似たような神様とか妖怪とか寓話とかあったりしますが、それでもちょっとずつ細部が違ってきます。これでは、共同体になれません。
しかし、出版によって一つの標準語が制定され、時代によらず同じ文章を参照できるようになると、それを読んでいる人たちが、遠く離れていても同じ物語を共有する仲間として認識できるようになります。
こうして、16世紀から18世紀にかけて、同じ言葉を共有して同じ出版物を読んでいた人たちが、同じ共同体、すなわち国民として認識されるようになったのです。
ホントかよ?
アメリカの事例
アメリカにいるのは、もともとヨーロッパに住んでいた人たちです。スペイン人とかです。彼らは、アメリカに移住したってスペイン人という意識を持っていてもおかしくないと思いませんか? しかし、まだその時代には出版がありませんでした。
18世紀後半に、アメリカにも地方新聞が生まれたそうです。
新聞で共有された情報を知る仲間であれば、出会ったことがなくても、同じ共同体の仲間だと感じられます。こうして、アメリカに移住したスペイン人たちは、スペイン人ではなく、アメリカ人としての意識を持つようになったのだそうです。
ということで、想像の共同体というのは、出版された文字によって作られた、書物の共同体だったということがわかりました。全然想像じゃないじゃん。めっちゃ物依存じゃん、って思いました。面白いですね。
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